情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2022年1月29日

頭がよくなりたいなあという話をした。これまでの人生、地頭の良さだけで乗り切ってしまったところがある。地元の狭いコミュニティの中ではなんとかなったが、大人になってから自分よりも圧倒的に「できる」奴と何人も出会って、自分のできなさに悲しくなった。恋人は「頭が良い人は、頭を使っているんだ」と言った。書き言葉にすると、なんでもないように見えるが、私はこれを聞いて本当にそうだ、と感じた。私は頭を使っていない。負荷をかけていない。生活にも人間関係にも勉強や仕事にも、手癖で遊べる範囲でしか頑張れない。頭が良い人たちは手癖以上のことをやる。必要な情報を集めて(ここまではみんなやっているかも)集まった情報をちゃんと読み(これは大変難しい)さらに各情報を比較して結論を出す。(すっごく難しい!)私はこういう作業が出来ていないと思う。頭が良い人たちは頭を使うことが習慣になっているので、呼吸をするたびにどんどん知識が蓄積されて、必要なときに最適に、かつ最短で自分の答えを導き出す。さらに今の時代だと、情報を取捨選択する力がものすごく重要だ。あまりに情報が溢れすぎていて、ほとんどがカスみたい。どんなときも一次ソースにアクセスできれば申し分ないが、医療など高度な知識が求められるときは難しい。素人にも分かりやすいような噛み砕いた情報に至ったとき、その情報が信頼に足るか、常に意識していなければいけない。せっかく集めた情報がカスしかなかった場合、熟読したところで意味をなさない。

昨晩、初めましての人と仲良くなった。シーシャ屋さんで友達経由で紹介してもらい、雑談の中で好きなものが似ていることが分かった。友達もその人も良い大学を出ていて、たぶん勉強を頑張った人たちだと思った。今も勉強を続けているのが何よりの証拠だ。私はもっといろんな話がしたかったし、できたと思うが、頭を使う会話がいかんせん久しぶりで全然まともにお喋りできなかった。恥ずかしかった。とても楽しかったけれどね。特に文学の話題になったとき、こんなに文学が好きなのに全然私の文学・小説に対する気持ちを言語化できなくて情けなかった。その人とは今後も会える機会が持てそうなので、また本の話で盛り上がれたらいいな。

そういうわけで、もっと自分に負荷をかけようと思う。文章を書くのが一番楽しくて身近な方法なので、ここを訓練の場所にしよう。1月は何冊か本を読んだので、「ひとり読書会」とでも題して、ブログで読んだ本の読書会が出来たらいいなあと構想している。

 

とにかく文章を書くのが好きだ。小説が書けなくなって、私には文筆業は無理だ、才能がない、向いていないと半ば諦めていたが、こんなに必要もないのにブログを更新する人が向いてないは言い過ぎたと思い直した。どんな形であれ、文章は書き続けていきたい。