情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2017年5月3日 その2

 

 新宿駅方面へ向かう電車内に仲睦ましい若い男女が居た。某テーマパークの帰りのようで、男の首元には兎の耳を象ったカチューシャがぶら下がっていた。中学生か、高校生か。髪の毛の初々しい黒さや、表情の幼さが目に着いた。女はオシャレをしていた。紺色のパーカーにジーンズのジャケットを羽織り、ひらひらと広がる赤く短いスカートを履いていた。足元は、黒く網目が大きめの網タイツと履きなれた様子のスニーカー。

 ……網タイツ?そう、網タイツを着用している。ただ足を露出させるのではなく、網タイツを履いている。ストッキングではなく、網タイツである。細いながらもふくらはぎの筋肉が確かについている女の足の上に黒く縁取りされた菱形がいくつもできている。少し日に焼けた菱形が赤いスカートの下から顔を覗かしている。男は女より顔一つ分背が大きい。男は自分より小さい女を嬉しそうに見下ろし、女もまた嬉しそうに自分より大きい男を見ている。男は電車のドア部分に寄りかかり、女は男の胸板に寄りかかっている。男の手は女の腰に回され、女の手は今日のお土産袋をぎゅっと握っていた。その間も赤いミニスカートと網タイツとスニーカーは仲良く女の身体に纏わっている。赤と黒の下半身とジーンズと紺の上半身が手を繋いで黙している。卑猥だ。ただ足を露出させるよりもずっと卑猥である。ジーンズとパーカーと赤いスカートとスニーカーだけならば、カジュアルながらも女の子らしさを取り込んだ健康的で天真爛漫の女をイメージさせる。そこに卑猥なものは存在しない。だが、彼女はあろうことか網タイツを着用している。黒い網が女の足に絡みついている。まだ10代であろう女、直線から曲線へ移行が完成していない女、その足に黒い網が菱形を描いている。天真爛漫な女の像を凌駕する網タイツの存在感にアンバランスな猥褻さを放っている。

 男女はにこやかに今日の思い出を語っていた。私は突如として、叫び声を上げたくなった!男よ、今すぐ女の網タイツを引き千切って、女を犯しなさい!!その衝動を押し殺す。男女はずっとお互いの身体に触れながら、笑っている。これは性行為を公衆の面前で行っていることと同義ではないか?そのように迂遠な接触をせず、ここで股を広げればよい。女の網タイツが今すぐに均等な菱形を崩壊してくれと言っている。男の為すべきは、ここで女の網タイツの本懐を遂げさせることである!女の身体を床に押し倒し、赤いスカートをめくりあげ、黒い網タイツを引き千切る。女は突然の出来事に悲鳴を上げることもできず、男はただ淡々と成すべきことをする。電車の乗客はそれに一切視線を送らず、男女の使命を察するのである。女が足を屈折させると網タイツも形を変える。伸び縮みをする菱形が今か今かと瓦解のときを待っている。男はそのことに一切気付いていない様子だ。だが、隠し持っている情熱が網タイツの甘い誘惑の香りを無視するはずがない。網タイツは赤いミニスカートの下から機会を窺っている。男は若さから己の行動を起こすことができないでいるのだ。そうに違いない。男の微笑から浮かぶ戸惑いの色が何よりもの証拠である。男の不安を払拭してやりたい。さあ!網タイツを破り、女を犯せ!!と言ってやる。網タイツの声のままに、己の情熱に訴えかけるその声のままに、引き千切るのだ!

 電車は新宿駅に到着した。多くの乗客が降りていく。男女も、人波に押されて電車から排出された。お互いの手を握り、笑いを絶やさず、駅のホームから去って行った。男女がこの後どこに向かったかなど知る由もない。不敵な網タイツだけがそれを知っている。

2017年5月3日 その1

 GWですね。ちゃんと映画を観てますか?最近はSM用語に触れることが多いので、〈黄金週間〉という文字列を見るとスカトロ強化週間なのかと思ってしまいますね。一行目から何の話をしているんでしょうかね。分からない人は調べないでください。

 

 生まれて初めてタブッキを読んでいます!ずっと気になっていたのです。正直なところ、書かなくちゃいけないレポートがたくさんあるので本読んでいる場合じゃないのですが苦笑。まだ最初だけしか読んでないけど、とてもいいですね。これからタブッキの本をいっぱい読みたい。

 シャトレーゼのある町で育った私の環境下において外国文学を読んでいる人はゼロでした。ゼロです。だから高校生になるまで外国文学にあまり触れずに育ってきました。存在を知らなかったと言っても過言じゃないかもしれません。もちろん、それは私の不勉強の言いわけに過ぎないのですけど。そんな私が今こうして外国文学に触れるようになったのは、やはりインターネットの力が大きいと思うのです。憧れを抱いたブロガーの多くが外国文学に親しんでいました。憧れに少しでも近づきたく、私も彼らが読んだ本を真似して読みました。難しくて分からない本もある、今でも積読して放置してある本もある、それでも決してそれらが遠い世界のものではなく私にも手が届く世界なのだと思えて幸せなのです。

 手が届くとはいえ、人差し指がちょこんと本の表紙に触れているに過ぎないのです。嬉しいけどちょっぴり切ない。これが小さい頃から全集なんかが家の本棚に並んでいる家庭の子なら活字と活字の隙間にまで行けるのだろうけれど、私は触れてるだけです。さらに勉強している方ならば、印字された文字を通して作者の脳髄にまで触れていけるのだろうなあ。いいなあ。私もいつか本の向こう側にまで手がとどくといいなあ。

 

 いや、だからね、だんごちゃん、そのためにもレポートを書かないとダメだよ。

 

 

2017年4月26日

 今日は一日中頭が痛かったよ。膨張しているようだ。耳の中からデュクデュクと音がしました。教科書全然読めなかったや。

 

 熱が出てるみたい。ずっと身体に纏わりついている。解熱剤で治ると思う。あまりに定期的に発熱するからもっと目を向けた方が良いのかな。自分の体調。ただの熱じゃないかも。すぐ感染する。感染する種が私の中にあるからだと思う。いつまでも馬鹿にしている側で居たく無くない?馬鹿にされてからが勝負だよね。

 

 ぽろぽろぽろ

 

 あ、こういう道もあったんだなあって今になって思う。私はやっぱり大学受験の時期に戻りたいなあ。高校時代、記憶が薄くて笑っちゃう。悔しいよ。がんばろ。

 

 

 

 

2017年4月23日

 ちょっとお腹すいてきたね。昨日の自分のブログを読んだよ。もう少し丁寧に書くということを覚えたほうがいいね。勢いだけで書かない、見直して!

 

 夕方のテレビ番組で高橋一生さんが「くるりオザケンが好き」と言っていました。すごく、期待を裏切らないチョイスだなと思いました。高橋さんのことはドラマでお芝居を観るだけで何も知りませんが、今どきな言い方をしてしまえば塩顔系のサブカルな風貌の高橋さんです。彼が「くるり」と「オザケン」が好きだということはまさにイメージ通り!ぶらぼー!最高だぜ!と快哉を叫びたくなります。もし、高橋さんが3代目JSBや、欅坂46を好きだとしてもそれはそれでいいんです。何も悪くありません。とは言え、やっぱり好きなアーティストを聞かれたときにくるりオザケンと答えてほしい、私たちのイメージに合う趣味であってほしい!と願ってしまう愚かな庶民なのであります。こうして人の前に立つお仕事をされる方は他人の幻想に包まれていくのですね。(?)

 今日はにやにやしてたら日が落ちていました。日曜日はお休みすると決めているので気にしないことにします。生理が終わって体調が調子良いのです。そして今週はハッピーウィークなのです。るん♪

 父がリビングでゴルフクラブ(中くらいの、名前がよく分かっていない)を振っていました。父の趣味はゴルフなのです。一度振ったらローテーブルの脚にゴツンとぶつけました。二度目は床にゴツンとぶつけました。何がしたいのか分かりません。家が壊れちゃうよと声をかけたら、父は片方の口角を上げてニヒルに微笑みました。なんと、恐ろしい表情。もしかしたら父は本当に家を破壊しようとしているのかもしれません。ゴルフの練習に見せかけて自分が建てた家を、家族が過ごした時間を、今日までの私の成長を無きものにしようと企んでいるのでしょう。父は私の言葉を無視してまたゴルフクラブを振り始め、ゴツンと音を立てました。我が家は私がちょうど生まれた年に竣工されました。私と我が家は同じ時間、この世で過ごしているのです。父はまた、ゴツンとどこかにぶつけました。私がまだ歩けなかったときも、私がまだ言葉を知らなかったときも、この家は私のそばに居ました。そしてそこには我が両親も居ました。残念ながら私はそのことを記憶していませんが、幼いころのアルバムに父と母が笑顔で私を膝の上に乗せている様子を観たので間違いありません。両親は新しい家と新しい生命体と息をしていました。父がまたゴルフクラブを振って、ゴツンと音を立てました。愉しげに笑っています。私は他の子どもに比べて、立って歩くことができるようになったのが遅かったと聞きました。そのお陰で、誰よりも早くハイハイする子どもだったと笑って父は話しました。会社から帰ってきて、玄関を開けると凄いスピードでハイハイする生き物が迎えに来ていたと言いました。ゴツン、ゴツン。いつからか分からないのですが、最初からかもしれません、我が家は傾いていました。ビー玉を転がして遊んでいるとビー玉は必ず一点に向かって転がっていきます。私がそのことに初めて気付いたとき、家って傾いているものなのだなあと思いました。他の家でビー玉を転がしたことがなかったから傾いている家がおかしいことに気付けなかったのです。思い返せば、父は以前からゴルフの練習をリビングでしていました。ゴツンと音がしたのは今日が初めてじゃなかったのです。ゴツンとぶつけました。父は笑っています。それから私は何度もビー玉を転がしました。ビー玉があちらの方に向かって転がっていくんだよ、と母に報告しました。どこから手を離しても、ある一点に収斂していくのが面白かったのです。母は知っていたようで、そうなの、おかしいのよねと言いました。次に父にビー玉があちらの方に向かって転がっていくんだよ、と報告しました。父は笑いました。そう、このときも同じ笑顔でした。口角を不気味にあげて、ああそうなんだよと言ったのでした。ゴツンという音と共にその笑顔が思い出されるようです。ゴツン。あれ、これはどこから聞こえてくるんだっけ。パッと父を見つめると、父はゴルフクラブを置いて明日の準備をしていました。それでもゴツンという音が聞こえます。確かに家にゴルフクラブをぶつけている音です。家からは微弱ながらも振動を感じます。ほら、またゴツン。ゴツン。ゴツンゴツンゴツン。

 

2017年4月22日 その3

私が掴めない。掴もうとすると、スライムみたいにぬるりと手から落ちていく。私自身が私を掴めないなら、他人ならなおさら私のことは意味不明なんだろうと思う。正直なところ、私としても他人のことが意味不明だと日々感じている。唐揚げにレモンかけるの!?唐揚げにはマヨネーズでしょ!みたいな些細な違いが、いくつもいくつもあって、なんだこいつは?宇宙人か?と思うことがある。幼少期にそういう自分と他人の違いを学ぶのだと思うけど、実際のところ自分と他人が別人だとはっきりと意識出来たのは恋人ができたとき、だった。私にとっては。本当に驚くくらい、自分と価値観が違う。私が好きになった人なので、多少なりとも私と似ている部分はある。それでも相反する部分がどうしようもなく擦り合わせることの絶対不可能なくらいな深い違いが存在する。それは、私と恋人の相性が悪いという意味ではなく、私と私じゃない人が居たら必ずそれは存在するのだと思う。多くの場合はそこに気づくことのないように、遠く柔らかく触れずに過ごす。しかし恋人とは同一になろうと願う。同一になろうとする。そうすればするほど、違いが明瞭に見えてくる。違いが見えたところで、相手のことは自分じゃないので簡単に変えられない。とは言え、自分のことさえ私はよく掴みきれてないからどうやって変えていいか分からない。いやはやむずかしやむずかしやと頭を抱えることありけり。それでも、私が私を掴もうとする。私はあなたを知ろうとする。そのためには言葉が必要だった。文学が時には必要だった。日々変わり続ける私を記録し、理解し、抱擁するために言葉をつづるのだ!私以外の人にとっては、音楽かもしれないし、絵画かもしれない。スポーツかもしれない。私はそれを言葉で果たしたい。私が文学を学ぶ理由?文章を書く理由?ああ、きっとここにあるのだと今日のところは思う。私のことだから、また明日には定義なんて変わっている。だんごちゃんが生きたり、死んだり、膨張したり、凝固したり、隔離したり、それと全く同じ。だんごちゃんと私は同一のこともあれば、別人のこともある。それと全く同じ。

2017年4月22日 その2

 最近は戦後の日本文学のについて調べたりすることが多いの。やっぱり戦争は当時に生きる人々の何もかも崩壊して奪い去ったから、文学にも強く影響が見えるのね。それと同じことが、詩誌にも言えるなと湯船に浸かりながら思ったんです。

 私は平成に生まれて、おもちゃ代わりにパソコンでサンリオタイニーパークというゲームをよくやっていました。ポムポムプリンとか、結構難しかったんですよ。PCがとても身近なものとして存在していました。それから小学校上がって私はインターネットを覚えました。子供向けの掲示板に書き込んで、ロムってろと罵倒されましたよ。掲示板に慣れてきた私は、鬱屈していたのでしょう、無意味に卑猥な言葉を書き連ねて、二度と書き込めなくなったりしたわけです。(どんな小学生時代だ)そのあとかな?フラッシュゲームが全盛期で、誤ってアダルトサイトをクリックして架空請求食らって心臓が飛び出るくらい驚いたりね。

 …えーっと何が言いたいかって、インターネットで知らない人とコミュニケーションを取るのが当たり前の時代に我々は生きているのだなあとしみじみ感じたのです。だって、顔も知らない人と詩を書いてサイトにまとめて世界に公開するって、かなり凄いことじゃないですか?一昔前だったら、こう簡単に自分の作品を多くの人に見てもらうことなんてできません。SNSで不特定多数に簡単に宣伝できる、知ってもらえるということは改めて偉大なことだなあと思いました。そして、おそらくだけど、私は参加した皆さまと交流がほぼ無いのでおそらくなんだけど、私以外の皆さんもインターネットがかなり身近にある環境で育ってきたと思うんです。中学生頃にはブログでも作って詩や小説を書いてたと思うのです。私は「傘と包帯」を読んで「嗚呼、同じ時代に生きてる人なのだなあ」という感覚を覚えたのですよね。複数人の作品をまとめることのメリットですねきっと。ひとつ読むだけでも綺麗で愉しい。ふたつ読むとさらに違う側面が浮かび上がってくる。さらにいっぱい読むと交差して色濃くなっている核が見えてくる。面白いな~。

 

 最近のだんごちゃんの気付きを書いておくね。私、たぶんグループに所属するということが苦手なんだね。今更気付いたんだね。だから新たな出会いがあったとしてもここに所属しようとか、ここを自分の居場所にしようとかあまり気取らずに生きることにするよ。所属したい!という意識が先行して、グループの空気に馴染むための不自然な努力をしちゃうのがいけないのよね。まず、「私」という人間があってこそなのにね。その場に馴染もうとせずに、私が私としてその場に立っていようと思う。

 あとね、空気が読めない場所っていうのがあるの。または、空気は読めるが、正しい行動ができないっていうときもあるの。そういう場は単純に私の身体に水があってない状態にあるだけだからさっさと退散するに限るね。今までの私は、空気が読めない自分は駄目なのだと思ってへこんでいたけれど、むしろ逆だね。お前らが私に合う空気を醸し出さないのが悪いんだね。お前らを変えるよりも自分が去った方が早いので、さっさと去る!それに限る!!

 ここから先は憶測に過ぎないのだけど、もしかして私が思う以上に、みんなグループに所属していないのかもしれない。グループで行動しているように見えるみんなも実はグループに所属している感覚は希薄なのかもしれない。夫婦として人生の共同運営者を見つけた人でももしかしたらパートナーの腕の中は帰る場所ではないのかもしれない。私だけが孤独なんだ、私はどこにも所属できない人間なんだと思い込んでいた。だけど人間は誰一人として所属しているところなんて無いのかもしれない。みんなあくまでそのとき暫定1位の居心地の良い仮寓を見つけて笑っているだけかもしれない。それでも恐れを抱かずに過ごしているのは、彼らは強いからなのかもしれないし、視野が狭いのかもしれない、狭めているのかもしれない。どんな理由であれ、強さであると思う。今までの私はずっと恐れていた。所属する場所がないこと、居場所がないこと、私の居場所がどこにも見当たらないこと。不安と孤独と恐怖と…。涙が止まらない夜もあったけれど、私はもう大丈夫になったよ。砂のお城にも住める。一夜にして散ったとしても私はここに居ると言える。

そうよね、だんごちゃん?

 

 

 

だんごちゃん「うん!」

 

だんごちゃん「だんごちゃん、だんごちゃんのこと大好き!」

 

 

 

 

ありがとう!

 

 

 

 

 

2017年4月22日

だんごむしのだんごちゃんです。ポップコーン食べて上機嫌だよ。

 

 

 

今日はお知らせがあります。

 

↓Web詩誌『傘と包帯』に参加させて頂きました!↓

https://kasatohoutai.tumblr.com/201704

 

 

私の拙い詩が掲載されてあります。とても素晴らしいメンバーの中に私の名まえが並んでいることに気恥ずかしさもありますが、宜しければご一読お願いします。

 

詩誌について。

主催である早乙女まぶたさんを含め、ご参加されている皆さまの詩、とてもきらきらしていて読んでいて胸がときめきました。それぞれの詩に個性が光ります。それでも不思議なもので詩誌全体に似ているもの・共通するものも感じます。日常を柔らかく愛でるような無意識なる視線を感じます。繊細だけど強さがある。(せんさいってタイプしたら、1,000歳と変換される私のPCどうなってるの?)

 

このような素敵な企画に参加させて頂けて、だんごちゃんソーハッピー!一方で、私の素人感が凄いね!わはは~!以前の私ならば、劣等感や嫉妬心で消えてしまいたい気持ちに苛まれたでしょうが、最近の私は元気なので大丈夫そうです。というか、嬉しさと感謝の気持ちでネガティブな感情が打ち消されています。なんせ悲しい気持ちから発芽した「だんごむしのだんごちゃん」です。悲しいことや自分を傷つけることばかりで、だんごちゃんは自分にとって有害物だとさえ感じていました。それでも、こうやって詩誌に参加させて頂けたことは誇らしいですね!だんごちゃんの誕生は無意味じゃなかった!感謝の気持ちでいっぱい。

 

 

 

 

 

ねえねえ。ところで、だんごちゃんって誰なの?