情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2017年4月22日 その3

私が掴めない。掴もうとすると、スライムみたいにぬるりと手から落ちていく。私自身が私を掴めないなら、他人ならなおさら私のことは意味不明なんだろうと思う。正直なところ、私としても他人のことが意味不明だと日々感じている。唐揚げにレモンかけるの!?唐揚げにはマヨネーズでしょ!みたいな些細な違いが、いくつもいくつもあって、なんだこいつは?宇宙人か?と思うことがある。幼少期にそういう自分と他人の違いを学ぶのだと思うけど、実際のところ自分と他人が別人だとはっきりと意識出来たのは恋人ができたとき、だった。私にとっては。本当に驚くくらい、自分と価値観が違う。私が好きになった人なので、多少なりとも私と似ている部分はある。それでも相反する部分がどうしようもなく擦り合わせることの絶対不可能なくらいな深い違いが存在する。それは、私と恋人の相性が悪いという意味ではなく、私と私じゃない人が居たら必ずそれは存在するのだと思う。多くの場合はそこに気づくことのないように、遠く柔らかく触れずに過ごす。しかし恋人とは同一になろうと願う。同一になろうとする。そうすればするほど、違いが明瞭に見えてくる。違いが見えたところで、相手のことは自分じゃないので簡単に変えられない。とは言え、自分のことさえ私はよく掴みきれてないからどうやって変えていいか分からない。いやはやむずかしやむずかしやと頭を抱えることありけり。それでも、私が私を掴もうとする。私はあなたを知ろうとする。そのためには言葉が必要だった。文学が時には必要だった。日々変わり続ける私を記録し、理解し、抱擁するために言葉をつづるのだ!私以外の人にとっては、音楽かもしれないし、絵画かもしれない。スポーツかもしれない。私はそれを言葉で果たしたい。私が文学を学ぶ理由?文章を書く理由?ああ、きっとここにあるのだと今日のところは思う。私のことだから、また明日には定義なんて変わっている。だんごちゃんが生きたり、死んだり、膨張したり、凝固したり、隔離したり、それと全く同じ。だんごちゃんと私は同一のこともあれば、別人のこともある。それと全く同じ。