情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2014年12月17日水曜日


パーカーとジーンズを着て家を出た。
USBメモリの接続の調子が前々から悪かったのだが今朝はとうとう反応しなくなった。昨晩不真面目な態度で書いた私のレポートは無意味のものとなった。提出期限ぎりぎりに完成させようとするからこのような事故が起きるのだ。あらゆる問題を想定し時間に余裕を持って作成しておくべきであった。しかし嘆いたところでレポートは提出出来ないので気にせずに登校した。私がレポートを書くと小説のようなポエムのような柔らかい文体になってしまう。客観性が欠如している。我が強い。そういう意味では駄文を晒さずに済んだとも言える。(その駄文で単位が貰えるのなら幾らで書くべきなのだが)
講義で映像資料を観た。私の前に着席している人が首を左右に大きく揺らしながら眠るので視聴を妨害されて苛立った。講義後にはチャペルアワーに参加した。××先生が奨励者だったからだ。テーマはイエスの誕生物語―「義」と「御心」―
1週間したらクリスマスだ。イエス生誕の日。日本人にとっては本来の意味などお構いなしで恋人たちが愛を育み合うのだろう。同じ講義のあの子もクリスマスは彼氏と過ごすと言っていた。そういうことなのだろう。
エスの母、マリアは処女懐胎である。とはいえイエスの父、ヨセフからしてみれば処女懐胎など信じられるはずもないだろう。ヨセフはマリアのことを婚約中にも限らず見知らぬ男に抱かれた汚らわしい女だと思ったのではないか。またマリアにとってもこれは大変な出来事だったはずだ。天使から貴方は男の子を身籠ったと言われたのだと訴えたところで周りの人はヨセフと同じようにマリアを不潔だと見なすだろう。身に覚えないが無い罪で罰を受けるようなものだ。処女懐胎の真偽はともあれイエスの両親はイエスを生むという決心をした。これは難しい決断だと感ずる。ヨセフはマリアを殺すことも出来た。マリアは中絶という決断もあった。しかし彼等はイエスを生んだ。ヨセフとマリアの深い神への愛がイエスキリストを生んだのだ。
キリスト教信者でもなくキリスト教を深く理解している自信もないがキリスト教の教えの要となる事物は私に深い感動を与える。無神論者の意見を正しく理解していないがただ漠然と神がいる世界の方が私は好きだ。この辺の知識が全く無いので追々埋めていけたらいい。記号と名前に関わる話にも興味がある。色々知りたいことがあって時間が足りない。
このようなことを私には真面目な話ができる友人がいない。本を読んでいたら活字より漫画だよ漫画と笑われ、デカルトの話をしたら伝えたい要点を理解せずただ私が即興で作った例え話を面白いと言われる。だからこんなところに長々と書くのだろう。本来はお喋りなのに。相手の関心のあることと自分の話したいことを上手くチューニングして会話をするのは私にとって難しいことであり、普段黙り込んでしまうのはその共通項を見つけられないためだ。以上お分かりの通り自分の話しばかりしてしまう。自分の話は自分しか好まないのに。難しいことばかりだ。
同じ講義に出ているだけで関わったこともないのにシンパシーを感じる人が学校にいる。今日もすれ違った。自分が意識するから多く遭遇しているように思うのだろうか。同じ学科なら話しかけたのに恐らくこのままお互い顔見知りで終わるのだろう。全く知らない人なのに私と同じ感覚を持っているように錯覚してしまう。以前にもあった。自己完結された関係。喋らずにいる間の方が関係が充実するものなのだろう。
自分で言うのもあれだが一般的な学生よりは深く学問について考えていると思う。恋愛やサークル、バイトに力を注いでいない(注げない)ので当たり前だ。って上手く文章になりそうにないのでまた後日に回そうこの話は。
母親が「来週のクリスマスウィーク大丈夫?お金ちょっと貸そうか?」と言ってくれた。しかしこれは要するにクリスマスどこか遊びに行ったり友人らにプレゼントを買うこと前提で話しているのだろうか。そのことに気付いて私は軽く泣いた。私が大学の友達と上手くいっていないこと、部活をやめたいと感じていることを両親は知らない。大学生らしいと思っているのは本当に情けないことだ。私は相変わらずインターネットに傾倒している。
よいクリスマスを。

追記
最近インターネットなのに発言の具体性が強すぎるのは自覚している。小さい頃から自分の身の回りで起きたこと感じたことを1から10まで詳しく説明したがる質だった。インターネットでやるべきではない。宜しくない。くそ。