情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2019年9月21日

 頭が痛い日が多い。週末になるといつも以上に眠ってしまう。平日の夜に何かを書こうと思ってパソコンに向かっても言葉が浮かんでこない。本を開けば集中できない。家に帰ってきてからも仕事のことを考えるようになった。明らかに変わってきている。会社に、社会に適応してきている。以前のような、大学に通っていたときのような、哲学的思考が出来なくなっているように思う。頭が悪くなっている。仕事に必要な能力はそれなりに成長してきていると思うが、意識せず衰えている力もある、と思う。悲しい。筋トレをするように意識的に本を読み文章を書き物事を思案しないといけない。私は割となんでもそつなく出来てしまうタイプで、朝は起きられるし理解力は高いし集中力だってあるし最低限の会話もできる。だから会社に通える。会社で仕事ができる。致命的な欠点がない代わりに特筆すべき長所もない。プログラミングはできないし最高の作品を書けたわけでもないし美少女でもない。だから会社に通う。会社で生活費を得るしかない。悲しい。
 今日は恋人と休日を過ごした。と言っても、私の家で各自やりたいことを勝手にやっていただけだ。二人で何かしたわけではない。恋人はいつもシンプルだ。やりたいことをやる、やりたくないことはやらない、以上。恋人はたぶん、私よりもずっとなんでもそつなく出来るタイプで会社で働く能力がある。彼にとっては会社勤めが一番楽なんじゃないかと勝手に前々から思っていたのだが、私が正社員として働き始めて彼がそれを敢えて選ばない理由が分かってきた。正直、決まった時間に決まった場所行き、決まった作業を熟せば1か月困らず生活ができるだけのお金をもらえるのは私にとってかなり楽だ。考えなくていい。これがフリーランスだったら税金のことやらなんやら全部ひとりで考えないといけないだろう、私には確実に向いていないと思う。私は会社で働くことが「できる」。だから「やる」。恋人の場合は会社で働くことが「できる」。でもやりたくないから「やらない」。どちらがいいとかではないが、時々つらくなる。会社で働いていることが悪いことに感じてしまうことがある。上司が云々、同僚が云々と会社の話をするのが恥ずかしくなってへらへら笑うしかなくなる。悪く感じる必要ないのにね。
 最近は涼しくなって夜にお散歩するのが気持ちよい。仕事のことでいっぱいになった頭を鎮めてくれる。頭の中が空っぽになる。これでようやく”遠く”が見える。今日も恋人とお散歩をした。帰る時間になったとき、私は公園のベンチで泣いた。あなたとここでお別れするのが寂しいと泣いてしまった。恋人は寂しさを解消する方法を考えてくれたけど、私はずっと泣いていた。仕事のことを考えてしまう私が嫌だった。恋人と一緒なら、もっといろんなことが見えて考えられて幸せでいられるのに一人になったらまた、余計で世俗的なくだらないことを考えてしまう、それが嫌だったのだ。本当は彼に頼ることなく私が私のままで私として世界に触れていなくてはいけないのに、その能力が失われつつある、ということが寂しかった。だめだめでごめんね。
 今日はヨハネによる福音書を読んだ。かなり胸熱で劇的だ。他の福音書にない奇跡も多く、読み物として面白いと思う。聖書を読む時間を作るのは私には有効だなあ。愛することや信じることについてまだまだ考えたいよ。
 どんな文脈だったか、忘れた。恋人に「信じるってどういうこと?」と聞かれたことがあった。そのとき上手に答えられなかった。今も答えられないけど、できる範囲で試しに書いてみよう。例えばあるカップルがいて、彼氏が浮気したけどもう二度としませんと彼女に誤った場面で彼女が「もう裏切らないってあなたのこと信じてるからね」というとき、これは私の思う「信じる」とは異なった意味となる。例えば親友に会社を立ち上げるから金を貸してくれって言われて「成功するってお前を信じてるよ」と言ってお金を貸すとき、これもまた異なった使い方をしている。このような場面で使用される「信じる」は、相手への呪いを含んでしまっている。期待とか、希望とか、言い方を変えてもいい。相手へ何かを求めている。例え話に出した彼氏や親友が大きな失敗を犯したとき、周りの人間は「信じていたのに」と落胆するだろう。これはとても傲慢だと思う。信じることを決めたのは自分自身なのに、他人の行動で肩を落とすのは間違いだ。だからと言って、「信じていた俺がバカだった」と言い出すのも違うと思う。それは結局のところ「信じていなかった」ということだ。信じる対象がどのようなことをしようと信じること。ただ在るということを在ると思うこと。それが信じること。って、これじゃあ説明にならないのよ。語彙なし女。つらい……。信じることによる損得は本来発生しないはずなのだ。その価値観の外にある。何かを信ずるということ。信じる対象が、あなた自身を傷つけて悲しむことが起こるかもしれない。それでも信じるということは損なわれない。信じることをやめるということには繋がらない。
 恋人と私は考え方(プロセス)としては似ていないのだけど、着地点(結果)が似ているから仲良くしていられるのだと思っている。詳しいことを書こうと思うと、彼の考えについて書かなくちゃならないからやめた。間違って理解してたらやだから。笑。

 

そーんな感じ?はい。明日はお友達とおでかけです。たのしみ!