情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2019年4月25日

 

★★★

 

 時おり、少女はどうしても、何か文章を書かずにいられない気分になります。そして、一生懸命に文字をつづります。

 いろんなことを書くのですが、そのなかの一部を見てみましょう。

「これをふたりでわけましょう。どうですか」

「聞いてください。おかけください。動かないでください。おねがいです」

「もしわたしに高山の雪がひとかけらでもあれば、一日があっという間に終わるのに」

「泡よ、泡よ。わたしのまわりの泡よ。もっと硬いものになれないの?」

「輪になるには、最低、三人がひつようだ」

「埃の舞う道路を、顔のない二つの影が逃げ去ってゆきました」

「夜、昼、昼、夜、雲、それから飛び魚たち」

「何か物音が聞こえたように思いましたが、海の音でした」

 

 

 『海に住む少女』「海に住む少女」

シュペルヴィエル著、永田千奈訳、光文社、2006年

 

 

今日は疲れました。天候も気持ちの良いものではなく、身体が重たい1日でした。久しぶりに湯船にお湯をはり、入浴剤を入れて浸かりました。そして上記で引用した文庫本を持ってきて読みました。表題作は何度も読んでいます。

理由もなく、意味もなく、自分の言葉ですらない。それでも文字を書きたくなるときがある。地下鉄から地上に上ってきたときに、暖かい風が猫背をピンと伸ばす、肺を膨らませて目を開かせる、そんなとき。または、すれ違う同じ境遇と思われる新卒入社の若々しい女性たちの前髪が私のものと異なり、きっちりとワックスで崩れないようにされているのを見たとき。週末の飲み会でどんな会話をするのか脳内シミュレーションを行なって次々に芸術についての持論を述べる私の饒舌な台詞を妄想しているとき。それらが全て、ちゃんと言葉になったらどれだけいいだろうと思う。怠け者な私は書き溜めるべき瞬間を逃し続けて次々に忘却していく。面白いもので、本を読んでいるとき、例えば「海」のシーンがあったとしよう。そうすると、それまで覚えていないと感じていた、思いだしたこともなかった本の一節が頭の中で浮んでくる。このときは、三島由紀夫の『春の雪』だった。1冊だけじゃない。何冊も、何冊も現れる。ボードレールの「人と海」だ。「以前もこのシーンを”見た”ことがある」と初めて読んだ本で感じる、そのときは私の記憶を司る部分が大仕事をしている証拠で、普段使わない奥狭まった埃まみれのところを無理やり稼働させているのだと思う。もちろん本だけではない。思い出されるのは現実に起きたことだったり映画だったりもする。それがどんなであれ、私は本を起因として思いだす、私の頭の中に埋まっている嘗て感じたシーンを。そのときに何が起きるのか。平坦だった(或いは穏やかだった)秩序を持った物語が突如として厚みを持ち、紙面から飛び出して私たちの五感を奪う。奪われたのだから、当然のように時は止まる。無時間的世界へ強制的に落される。これが気持ち良い。これが読書の快楽のひとつ。君は知っていますか。(かの有名なプルースト効果と言えばそれまでである。)

 

かさほた主催者が序文などで繰り返し述べる「固有性」というものを、我々はどこまで信じられるのかという点を私は本当は語りたいのだ。万葉集を開いたら、彼等の感情は何パターンに分けることができるし、人は皆、夕陽を見て美しいと涙をこぼす。スピッツが嫌いな日本人がいるわけないし。それらの感想を言葉にする、形にする、音楽にする、その過程で「固有性」が生まれてくると言えるのか。私たちが感じている「これ」に独自のものなど存在し得るのか。我々が見ている「モノ」の方に存在している欠片を、人間がそれぞれ見て受け取り「美しい」と述べているだけではないか。福永がずっと探究していた人間が持つ「固有なもの」をどこまで認めることができるのか。追及した果てに私たちは私とあなたと分かつことのできるものが見つかるのだろうか。右手と左手は同じ形ではないし、生殖器はまるで形が異なっているし、そんな分かりやすいことでしか違いが見つからないかもしれないなんて、思っても、私はまだ何も語ることができない。私は日曜日に資格試験があるからそれに向けて勉強している。とても簡単なテストだから受かると思うけれど。