情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2018年6月19日

 私が退屈しない理由。日常の一例。

 

 最寄駅で電車を降りた瞬間、私が自動車に轢かれる映像が見えた。霊感。今日、私は轢かれて死んでしまうのだと確信する。特に不安に怯えることもなく、運命の流れに身を任せる。目の前に表れた出来事を受け入れること、それに自分を委ねることは私の良い点であるか。いくつもの思い付きを二つ返事で受け入れて、今日は三鷹駅まで行ったのだった。先週は宇都宮、その前の週は横浜へ。夏には南へ行き、秋には日本を飛び立つ。知らない土地に行くのは大変楽しい。駅の脇の駐輪場に置いてある自分の自転車の鍵を外しリュックを籠に載せて私はサドルに跨り帰る。私の前を走る自転車は青いロングスカートを履いた女性が乗っていた。彼女は4車線ある広い道路を注意深く左右を見渡してから向こう側へ渡った。私も真似しようかと思うも、勇気が出ない。横断歩道がない場所を走れない。信号無視が精いっぱい。親の目を盗んでこっそりやるゲームの緊張感を思い出しながらペダルを漕ぐ。この道はいつも満月が出ている。自転車が複数台あり庭には綺麗な花が咲いている。絵本に出てきそうな三角屋根の家の2階部分に丸い窓があり、部屋の照明で暖かい黄色に染められてまるで満月のようだ。空気を読むように今日の月は雲に覆われて主役を譲る。ライトを付けた私の自転車はウインウインと音を立て続けて車輪を回す。その音は私の進む方向を案内し、道路を通る自動車のタイヤやエンジンのノイズが遠ざかるのを笑っているが、それらは波の揺らぎに感じられ、砂浜を裸足で歩く感触と海水の冷たさに驚く誰かの声が現れ、たが、消えた。目の前に本物の大海が広がっていた。オレンジ色の街灯が夕陽のように熱く燃えて海を照らす。海の中には一晩中愛を語り合う恋人たちの歌声が響く。それは田んぼであり、それは蛙であるのだが。水面に美しく照らされた夕陽に心を打たれ、いつか私も蛙に生れようと決意する。先日の雨の日、田んぼの中には足の生えたオタマジャクシが飄々と遊んでいた。そのときにも同様のことを思った。私は蛙になると。その先の光はただ白いだけ。決められた距離に建てられて、進級進級卒業進級進級卒業を繰り返す意味のない年の積み重ねである。夢と現実、意識と無意識を混ぜて混ぜて、浸かる。何でもない木を人間に見立てて、暗闇の中で姿の見えない老爺を見つけて、猫が話しかける言葉を聞きとる。私は自由に明日へ昨日へジャンプで移動して、友人に挨拶をする。最近どう?まあまあだね。それからそれから……。こうして、私は家の前に着く。轢かれる霊感を忘れて玄関を開ける。夢から目が醒める清々しさ。玄関を開けるたびに、親に声をかけられるたびに、忘れていく想像の世界の全て。だから、私は退屈しないのだと思う。