情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2017年11月23日

だんごちゃんだよ。今日はツイッター更新し過ぎた。文フリ行けなくて悲しかった。

 

 頭が痛く何も出来なかったから日記帳を読み返した。思ったより面白いことは書いてなかった。2017年がもうすぐ終わる。私は今年の夏に生活パターンを転換した。結果、大成功だったと言える。精神状態が安定している。本が読める。文が書ける。不安感や緊張が消えて集中力が高まったのだろう。理想とする生活にはまだ遠いが前進したと感ずる。この道の先に愉快な日々が待っている。
 具体的な変更点で主なものは、起床時間と就寝時間がおおよそ固定されたことだ。かなり初歩的だが、しっかり効果が出た。現在の私は「社会のレール」から外れており、意識しなければ堕落した生活に成り易い。無理やりでも毎日の計画を定めることが大事なようだ。
 次に、独りで過ごす時間が増えた。以前は毎晩のように恋人と通話をしていた。朝まで話すこともしばしばである。また、突発的に会いに行くなどして生活が乱れた。是が非でも会いに行き、彼の為に時間を工面することが最優先事項であった。彼の話をはじめると長くなるので割愛。独りの生活は快適だ。自分の興味関心を一番に考えて動くことが可能である。無駄な交遊関係は一切無い。うら寂しいときは文章を書けば落ち着く。週末に信頼できる友や尊敬する知人に会えば満たされる。自分にとってちょうどいい塩梅で暮らせている。
 そして考え方が変革されたようだ。「私は私を大切にしない人から私を守らなければならない」と日記に書かれていた。このことを形だけではなく体感として理解したことは今年最大の収穫である。以前の私は自分を大切にする意識が欠如していた。私が我慢すればいい、私は価値が無いから、と自身を蔑んでいた。また自分自身を自分でコントロールする意識も欠けていた。自分に対して責任を持っていなかった。喪失、または略奪された自己を取り戻した年であった。
 

 『閨房哲学』を読んでいる。精神に大変良い効用をもたらす。道徳の教科書として扱うべき。だが、私が読んでいるものは誤字が目立つ。「そして」が「そしして」となっている箇所を見つけた。他にも数点気になるものがあった。頑張れ出版社。
 不安を覚えた。私の将来についてある程度の方向性は定めてあるが、その選択に初めて胸騒ぎを感じた。毎日同じ環境で特別愛着のない仕事を淡々とやっていけるのか。しかも対して高い賃金が支払われるわけでもない。まるでマリッジブルーのようだ。大きな決定を目前に控えて憂鬱になるのは誰しも共通なのだろうか。
 私はやはり、自分に期待しているところがある。「こいつはいつか面白いことしてくれるんじゃないか?」と他人事のようだが、そう感じている。何をしでかすかなど微塵も考えていないが、とにかく日本に生活する大勢の人と同じように私も生活するとは思えない。残念ながら私は才能も能力も無いから、大勢の人と同じように生活するしか生きる方法が無いのだけど。愚かだ。20歳過ぎて優れた特徴も無い女がまだ何かに期待しているなど、あまり考えたくない。要するにモラトリアム継続中ってこと。

 

 ツイッターでも呟いたが、ある日電車で本を読んでいたら見知らぬおじいさんに声をかけられて本を奪われた。「何読んでいるの?」と。その後の会話はすぐ途切れたから良かったが、ダラダラ会話に付き合わされていたかもしれないと思うとぞっとする。その日の帰り道、78歳(本人がわざわざ大きい声で言っていた)のおじいさんが近くにいた男性にバスの行き先を尋ねた後に、バスを待つ列を無視して我先にバスへ乗車した。
 二人のおじいさんは全く別人だが、似ているものを感じた。年を重ねた男性に共通する「匂い」があるのだ。
 電車で出会った男性は、スマフォを見るわけでもなく本を読むわけでもなく、外を眺めたり、周囲を見渡したりしていた。落ち着かないようである。時折席を立って伸びをして、他の乗客に平然と迷惑をかけていた。そして、ちらちらと私を盗み見ていた。これは話しかけられるかもと不安になる。小説で顔面を覆い、絶対視線が合わないように努力をしたが、徒労となった。バス停で出会った男性もまた、同じように落ち着かない様子で誰かに声を掛けていた。周囲の人の迷惑を考えていないように見えた。
 彼らはひとりで居ることに慣れていないと私は感じる。誰かと話すことや、自分が偉い立場になることが日常的なのだろう。妻や家族、部下には許されていたかもしれない高圧的な態度は他人には通用しない。偽りの権力を行使していた男性にとって、男性を立てる存在がいない状態ほど無様なことはない。権力が通用しないことに気付いていないのか、気付いていて振る舞いを今更変えられないのかどちらかは判断できないが、そういった考えで他人の迷惑など顧みない男性がいるのではないだろうか。
 孤独は誰しもつらい。他人と権力行使を通してでしか交流してこなかった男性は年を重ねれば重ねるほど周囲から人が消えて孤独が増す。そのつらさを紛らわすように誰かに話しかけるのだろう。孤独が歪な形で露出しているのだ。
 男性に限った話ではなく、やたら他人に話がしたいご年配の方は多い。年を取ると会話の相手がいなくなるのにやることはなくなるためであろうか。益々孤独感は酷くなる。そしてスーパーのレジのアルバイト、バスの運転手、隣の席に座った誰かに声をかけるのだ。
 私はそういった相手の孤独を慰めるような会話は「匂い」が感じられて好きじゃない。自分の孤独を見知らぬ他人にペッティングしてもらおうという魂胆が漏れている。極力避けたい。巻き込まれたくない。孤独な人々に対する憐憫はあるが、それに付き合って奉仕し続けられるほど私の人生は長くない。どうにか彼らが救われるといいと距離を保って祈るだけの偽善者である。
 とにかく人間、孤独はいけない。コミュニティーに加わること、そして人間同士、年齢差があるにせよ、対等に付き合おうという意思を持つことは大事だ。全ての人に好かれることは不可能ではあるが、敵は少ないに越したことはない。他人にある程度嫌われないコミュニケーションを取ってほしい。
 切実に頼むから本を読んでる人に話しかけないでほしいし、本を奪わないでほしい。怖い。

 

 

 

なんじゃこりゃ。何故こんな話に?まあいいか。

おしまい。だんごちゃんねむいよーっ!