情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2017年9月27日

今日は体調が悪くて学校を休んだ。午前中はぐっすり眠って、午後は録画しておいた映画を観た。どれも女性のキャラクターが魅力的で、こんな素敵な人に出会えたら人生が華やかになるだろうと思った。我を忘れるほどの恋愛や、命を懸けて正義を貫く出来事がこれからの私の生きる道に残っているだろうか。熱情を失ったように感ずる今日この頃である。私はぶくぶく太り続けている。醜い腹周りを見て我ながら情けなくなる。体型や顔つきは身体の所有者の歴史を簡単に開示する。私を見た人はこう言うだろう、甘やかされて育った世間知らずのお子様ね、と。ここのところ、ブログ、詩、そして日記も書いていない。滅びに向かっていく。私がほろほろと解れて元の形状が分からなくなる。もう少し、自分の形を保っていたい。

私は馬鹿が嫌いだ。犬が自分の尻尾を追いかけるように同じところをぐるぐると回って、楽しい楽しいと偽りの満足で自分や周囲の人を慰めていつまでも目指すべき場所へ足を運ぼうとしない。そこが終着点だと言うのなら別に構わないけれど私は付き合えない。自分自身は馬鹿で屑で醜い無価値な人間であることを自覚しなければならない。苦痛を自分の純白の証明の道具として集めてはいけない。いつまでも満たされないのは、その自意識過剰のためである。

面白いこともあった。私が将来就職を希望している業種の現場を見学した。想像よりもチームプレイらしい。人間の仕事だから当たり前だが、人間との関わりがある。そして、何でもやる。でも私が目指そうと思ったことは正しい選択だったと感じた。職場によっても雰囲気や仕事内容は異なるのだろうけれど、方向性は間違ってないという確信を得た。若さに胡坐をかいて生きる上で求められる飢餓感を喪失している状態ではあるが、どうにかもっと自分を磨き上げていけたらいい。

早く働きたいという気持ちが今はあるから、おそらくその選択はしないだろうが、例えば、私が大学を卒業したら2年くらい語学留学してもいいんだなということに最近初めて気付いた。語学はずっとやりたいと思いながら何度も挫折しているものの一つで、長い(といいな)人生の中で必ず叶えようと考えているものの一つでもある。私がその気になりさえすれば何でも叶えられるし、何でもできる、ただ選択していないだけだということに気づけただけでも幸いなことだ。無知は、力が無い状態のことだ。

今更ながら、通学時間が長くてしんどい。今日も講義だけなら耐えられるだけの体力はあったはずだ。映画が3本も観られたんだもの。私は朝の通勤ラッシュに耐えられる自信が無かったのだ。だるくても15分なら、30分なら我慢しようと自分を鼓舞できる。でも、2時間も着席できず知らない人間たちに囲まれて都内に運ばれるのは……。帰り道なんて最悪だ。具合が悪くて早く家で横になりたいのにギュウギュウの電車に乗らなくてはならないなんて、考えただけでも不安で呼吸が浅くなる。電車が空くのを待とうと思っても無駄だ。17時以降は何時であってもすぐには座れない。私の家の方向だとね。体調がばっちりで元気なときは通学時間に読書が進むのだけど、体調万全の日は少なく意識を遠くに飛ばしてばかりだ。この時間を有意義に使えればいいのに。1週間で何時間無駄に電車に乗っているのだろうと考えると嫌になる。早く都内に住みたい。

母が足首を捻った。過去にも同じ箇所を負傷しているため、かなり痛そうだった。運の悪いことに母は今週末友人と旅行に行く。怪我した足じゃ何かと不便だろうに。昔から母は間が悪いというか、肝心な時にヘマをするように思われる。私がまだ親を「親」として見ていた頃はそういう母が恥ずかしくて嫌だった。今は不憫で堪らない。母は怪我した足を引きずるように歩く。医者には完治したと言われているのだが、痛むことがあると言っていた。そして今日また捻った。私は母の老後のことを案じた。いつか痛む足を憂いて歩くことが億劫に思う日が来るだろう。そうしたら、私は母の面倒を見るのだろうか。母が明日の午前中に接骨院に行きたいから、兄に車の運転を頼んでいた。母も普段から運転するのだが、怪我した足では少し不安で兄に頼みたかったようだ。兄は面倒臭そうに、用事があるからなあと言った。分かった、自分で行くよと母が不服そうに言った。私も一応運転免許は持っているが、すっかりペーパードライバーである。この田舎で生活するためには車が無くては何もできない。私は必ず都内に住むと決めているので、運転する気が無い。でも、親が車を運転しなくなったとき、そして親が病院に行くとき、私はどうするのだろう。タクシーを呼べばいいのだろうか。

ああ、この話を書いていろいろ考えたことを思い出した。私は嫌だったのだ。私は私の人生を生きたい。誰かの為の人生なんて、申し訳ないけどできない。私は介護をしたくなかった。私は自分の人生を犠牲にして誰かを気持ち良くしようなんて思えなかった。傷ついた誰かに大丈夫だよと声をかけることはできるけど、傷が癒えるまでの時間を傍でずっと面倒見れるだけの度量は無かった。それをすると私が望む形に相手の意思を動かせないと私に不満が生じるし、結局向いてなかったのだと思う。誰かを助けるのはあまりにも難しい。素人が簡単に手出しすべきことではない。そして、簡単に素人へ助けを求めるものでもない。適切な医療機関、または法的処置を行うべきだ。私には問題解決の責任や共に答えを探す義務は無い。そのために私の時間を割けない。私にはやりたいことがたくさんあるから!だから、貴方の問題は貴方の方で解決して頂くほかない。無力感と共に、当たり前だ、何も間違っていないとも思う。自分の問題を誰かに解いてもらおうと思うならそれは怠惰だ。甘やかされて、慰められて、いつまでも赤ちゃんのように泣き喚いて面倒見てもらえばいい。