情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2016年10月8日

こんにちは。低気圧の影響で頭痛に悩まされております。勉強しようと本を広げたものの、気付いたら夢の中でした。今もまだ本調子ではなく、ぼんやりとしています。酔い止めが効くと知っているのですが、手元に薬がなく、買いに行く元気もなく、だらだらとベッドで転がっていました。これ、根本的な解決方法あるのかしら?毎回薬を飲まないといけないと思うと気が重いです。今は自分のペースで生活しているので、無理のない範囲の活動に控えることができますが、いずれはカレンダーで動く会社で勤めたいと考えています。自分の体調をコントロールできるようになることも、社会復帰には必要だと思いますので今から訓練しておきます。生理痛は、ピルを飲むとだいぶ楽になる。だから、働くようになったらピル服用しようと思っています。それこそ、薬を飲み続けなくてはいけないのだが、まあ、しょうがない。

 

特別好んでいる、気に入っているというわけでもないのに、何かの縁なのか、数年に一度は必ず読む小説があります。『銀河鉄道の夜』です。初めて出会ったのは、小学生の頃。物語の内容はよくわからなかったけど、宇宙の幻想的な描写と、ジョバンニの台詞に切なさを感じた記憶があります。2回目も小学生の頃。国語の授業で宮沢賢治を取り扱ったときでした。教科書に載っている作品以外も読んで、紙芝居?のようなことをしました。画用紙にジョバンニ、カムパネルラ、ザネリ、鳥捕り、少年少女などを描いて、輪郭を切り抜いて、裏に割り箸を貼り付けたものを制作しました。パペットのようなものですね。方眼用紙には、銀河鉄道のあらすじを書き込んで、グループで発表を行いました。正直なところ、そういう記憶があるのは確かなのですが、そのときに何を思ったのか誰とやったのかどうして銀河鉄道の夜だったのか、さっぱり記憶がないので夢だったんじゃないかとちょっと思います。もしかしたら、グループ発表じゃなくて一人で自由研究のような形だったのかもしれない…。忘れました。次は中学生の時。当時のクラスの担任の先生が宮沢賢治の文庫本を所有していて、私に貸してくれました。そして、私は未だにそれを所有しています!借りたときからかなり日焼けして表紙カバーもない状態ですので、おそらく借りっ放しでも相手は困ってはいないと思うのですが、ちょっと悪いことしたなと思います。笑。同窓会なんかでお会いしたときに実は先生の本を借りたままになっていたのですと打ち明けようと考えていたのですが、先生は同窓会には姿を現しませんでした。それどころか、教えて頂いたメールアドレスはもう使われていないし、成人式のときに祝いのメッセージさえも贈ってはくれませんでした。私たちの代は先生に嫌われていたのでしょうか?そして、月日は流れて、現在。大学の課題で銀河鉄道の夜がテーマに挙げられました。久しぶりに読むと、また違った印象を持ちますね。今までの私は、素敵ではあるのだけどよくわからないという感想を抱いていました。銀河鉄道の夜に込められた賢治の想いを少し見えるようになったのでしょうね、まだわからないという気持ちはあるものの、わからないものを解釈していく手掛かりに気づくことができました。この後、丁寧に読み解いていく作業をします。

 

賢治の作品で最も好きなのは、『よだかの星』です。理由は、私の敬愛するSoundHorizonが同タイトルで曲を書いたから、ではなくて、これも小学生の頃に読んで衝撃を受けたからですね。それはもう衝撃を受けました。まず、最初の文章が「よだかは、実にみにくい鳥です。」それだけで、当時の私はなんだこれは?と思いました。絵本のような、挿絵が入った本で読んだのですが、全体の色彩が暗い。物語の内容も陰鬱としている。私は妙に息を沈めて、ページを捲りました。他の鳥たちに悪く言われ、虫を食べることに罪の意識を持ち、「灼け死んでもかまいません」と星々に乞うよだか。胸をざわつかせながら、読み進めていくと、よだかが燃えていくイラストと、「もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。」の言葉に、私は奇妙な感動を覚えました。読了後の、まだ物語の世界から覚醒することができない幸福で孤独な、充たされた余韻を忘れることができません。私は確かに教室の後で、お昼休みに学級文庫に並んだ本の一冊を立ち読みしていただけでした。しかし、その瞬間、私は学校にはいませんでした。よだかの星の世界を俯瞰している姿形のない存在として在ったのでした。

私が本を読む理由のひとつとして、この瞬間に出会いたいからなのだろうと思います。

 

幸せなことと、孤独状態であることはつくづく切り離せないものだと考えています。それは、やはりシモーヌの影響が強いのだと思うのですが、上記のような経験からも、すんなりとその考えを受け入れられるのだろうな。独りで本を読むときに、充たされた状態を得られるのに、他人と居ると孤独感で首が締まるように感じるのは、大変皮肉なものですね。どうにかならんものか。多分、人間と付き合う中でも同じように充たされた感覚を味わえると思うのです。工夫次第、考え方次第。私はまだ未熟で、それを習得しきれてないというところでしょうか。何事も方法は分かるのだけど、実践は難しい。

 

なぜか、キーボードを打つ手が止まらない。もうしばらく私の戯言にお付き合いくださいませ。

 

今朝からもやもやとしていた。どうしても納得できないことがあった。悶々と考えた結果、それは私の欲望が満たされていないことに起因することが判明。そうして、私はそれを満たすためにブログを更新する。ポリアモリーの用語?でコンバージョンというものがある。嫉妬の対義語とされており、好きな人が、自分以外の他人を愛しているときに感ずるあたたかな気持ちを指す。嫉妬という感情を抱く人間は、好きな人が自分以外の他人を愛するときに嫉妬、負の感情を抱くと思う。それは悲哀や憤慨であろう。その反対です。想像できますか?私は、この感覚を理解できる、さらに感じたこともあります。しかし、いつも嫉妬心を感じないわけでは決してありません。どうしても、気に入らないことはあります。どこで、そこの差が分かつのだろうと考えた時に、「そのときの私はどんな精神状態にあるか」という部分がかなり大きいのではないかと思いました。現状、満たされている/愛されている/自分を大切にできる心持ちのときは、相手の幸福を素直に喜べます。好きな人が、私以外の好きな人を愛でる、きっとそれは好きな人にとって幸福なことです。それを見て、私も幸せになれる。そんな感じ。現状、満たされていない/愛を感じられてない/自分を大切にできない心持ちのときは、自分の欠けた部分を相手に満たしてもらおうと必死です。そんな時に、好きな人が自分以外の人を愛でていたら、もうやりきれない気持ちになります。私はこんなにあなたを求めているのに、どうして応えてくれないの?と。これはどちらが良い悪いの話ではありません。人間ですので、どうしたって完璧にはなれないし、時にはへこむこともある、という話です。ただ、思うのは、コンバージョンを感じ取ることはかなり難しいことであるということ。常に満たされた状態で生きることの難しさを考えれば簡単です。私は、どうしたらできるだけ多くの時間を満たされた気持ちで生活できるか、それを大切にしていきたいです。そんなわけで、もやもやとしたり、へこんだりしたときにはそれの原因をちゃんと明らかにしていくこと、明らかにしたうえで解決しようと試みること。それを意識しています。今回は、自己顕示欲が満たされていなかったらしいです。ブログで自分の言葉を書くと、それにリアクションがありなしに限らず、読む人が居るというだけで満たされます。読んで下さっている方、いつも有難う御座います。

 

最近知り合った人間に、「いい加減に生きてるね、話を聞けば聞くほど変なこといっぱいしてそう」と言われました。その理由は、私が中学生の頃に吹奏楽部が無かったから代わりに剣道部に入った。友達が剣道部に入ったから、そして剣道はやらずに遊んでいた。という話をしたからです。まあ、確かにいい加減に見えるでしょう。吹部が無くて剣道部に入部するのも意味不明でしょう。そう言われたことに対して別に妥当な意見だなとしか思いません。むしろ、私っていい加減に生きているかも、変なこといっぱいしてるかもと思ってしまいました。私としては私の思う道を歩んでいるので、変なことをしているつもりは全くないです。ただ、それが他人からすると変な奴だと思われてしまうのだなと改めて思いました。残念ながら私は堅実に生きていける人間ではないのです。文学部に所属しているため、物語の考察や裏の時代背景、人間同士のエピソードを聞く場面が多いです。私はかなりそれが楽しいです。しかし、その知り合いは苦痛のようでした。彼に言わせれば、「これテストに出ないでしょ?」という話。なるほど、確かにテストには絶対出ない小話が多いのは事実。しかし学問の特色上、方法論や結果ばかりを追い求めてはどうなのだろうかと思います。そういうところも、私と彼は考え方、世界の見え方が違うのだなと感じました。そして、文学部は遊べると言われる所以でもあるなあと思いました。テストに出ることだけなら、ぶっちゃけ講義などでなくても大丈夫です。本に書いてあることを自分の言葉に変えて論述すればそれだけです。まあ、このご時世じゃな、しょうがないよな。これもやはり良い悪いの話ではなく、考え方が違うなあというだけ。

 

なんでこんな書きたいことがあるんだろう。まだ書こうと思えば書けるけどやめておく。キーボードを鳴らすのが楽しいだけかもしれない。ブログに書かないでレポートを進めようね私。