情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2019年4月25日

 

★★★

 

 時おり、少女はどうしても、何か文章を書かずにいられない気分になります。そして、一生懸命に文字をつづります。

 いろんなことを書くのですが、そのなかの一部を見てみましょう。

「これをふたりでわけましょう。どうですか」

「聞いてください。おかけください。動かないでください。おねがいです」

「もしわたしに高山の雪がひとかけらでもあれば、一日があっという間に終わるのに」

「泡よ、泡よ。わたしのまわりの泡よ。もっと硬いものになれないの?」

「輪になるには、最低、三人がひつようだ」

「埃の舞う道路を、顔のない二つの影が逃げ去ってゆきました」

「夜、昼、昼、夜、雲、それから飛び魚たち」

「何か物音が聞こえたように思いましたが、海の音でした」

 

 

 『海に住む少女』「海に住む少女」

シュペルヴィエル著、永田千奈訳、光文社、2006年

 

 

今日は疲れました。天候も気持ちの良いものではなく、身体が重たい1日でした。久しぶりに湯船にお湯をはり、入浴剤を入れて浸かりました。そして上記で引用した文庫本を持ってきて読みました。表題作は何度も読んでいます。

理由もなく、意味もなく、自分の言葉ですらない。それでも文字を書きたくなるときがある。地下鉄から地上に上ってきたときに、暖かい風が猫背をピンと伸ばす、肺を膨らませて目を開かせる、そんなとき。または、すれ違う同じ境遇と思われる新卒入社の若々しい女性たちの前髪が私のものと異なり、きっちりとワックスで崩れないようにされているのを見たとき。週末の飲み会でどんな会話をするのか脳内シミュレーションを行なって次々に芸術についての持論を述べる私の饒舌な台詞を妄想しているとき。それらが全て、ちゃんと言葉になったらどれだけいいだろうと思う。怠け者な私は書き溜めるべき瞬間を逃し続けて次々に忘却していく。面白いもので、本を読んでいるとき、例えば「海」のシーンがあったとしよう。そうすると、それまで覚えていないと感じていた、思いだしたこともなかった本の一節が頭の中で浮んでくる。このときは、三島由紀夫の『春の雪』だった。1冊だけじゃない。何冊も、何冊も現れる。ボードレールの「人と海」だ。「以前もこのシーンを”見た”ことがある」と初めて読んだ本で感じる、そのときは私の記憶を司る部分が大仕事をしている証拠で、普段使わない奥狭まった埃まみれのところを無理やり稼働させているのだと思う。もちろん本だけではない。思い出されるのは現実に起きたことだったり映画だったりもする。それがどんなであれ、私は本を起因として思いだす、私の頭の中に埋まっている嘗て感じたシーンを。そのときに何が起きるのか。平坦だった(或いは穏やかだった)秩序を持った物語が突如として厚みを持ち、紙面から飛び出して私たちの五感を奪う。奪われたのだから、当然のように時は止まる。無時間的世界へ強制的に落される。これが気持ち良い。これが読書の快楽のひとつ。君は知っていますか。(かの有名なプルースト効果と言えばそれまでである。)

 

かさほた主催者が序文などで繰り返し述べる「固有性」というものを、我々はどこまで信じられるのかという点を私は本当は語りたいのだ。万葉集を開いたら、彼等の感情は何パターンに分けることができるし、人は皆、夕陽を見て美しいと涙をこぼす。スピッツが嫌いな日本人がいるわけないし。それらの感想を言葉にする、形にする、音楽にする、その過程で「固有性」が生まれてくると言えるのか。私たちが感じている「これ」に独自のものなど存在し得るのか。我々が見ている「モノ」の方に存在している欠片を、人間がそれぞれ見て受け取り「美しい」と述べているだけではないか。福永がずっと探究していた人間が持つ「固有なもの」をどこまで認めることができるのか。追及した果てに私たちは私とあなたと分かつことのできるものが見つかるのだろうか。右手と左手は同じ形ではないし、生殖器はまるで形が異なっているし、そんな分かりやすいことでしか違いが見つからないかもしれないなんて、思っても、私はまだ何も語ることができない。私は日曜日に資格試験があるからそれに向けて勉強している。とても簡単なテストだから受かると思うけれど。

 

2019年4月24日

 会社に行くために私は毎朝大きな川を二つ渡る。晴れた日には水面がきらきらと輝いて、通勤電車に詰め込まれたサラリーマンたちの背中を押す。まあ、しかし電車内でその輝きを知っているのは私だけで、みんなスマートフォンの画面を眺めているのだ。

 帰り道にはスカイツリーが疲れを癒してくれる。どこまで行っても付いてくる大きな電波塔の中にはこちらの電車よりもずっと大量の人間がうようよしているはずだ。そんなにもお腹の中に人間を抱えたら、いつか耐えられなくなって吐き出してしまうかもしれない。くだらない私の心配を笑うような紫色のライティングは彼の余裕の証、美しく東京の空に生えている。

 左手の薬指を飾る指輪をポケットに隠して、彼は私と一緒に夜に紛れようとする。私は怒って「会社の同僚です」と訴えた。それを知ってBarで私に話しかけてきた白髪の男性が無理やり掴んだ私の手首は、アフリカオオコノハズクのように細くなる。バーテンダーはグラスに猫を注いだ。おかげで体内のねずみは一斉に逃げ去っていった。

 眠りながら試験問題を解くと、答え合わせのときに見たことのない問題が出現する。一度で二度おいしい。今日はちょっと嫌だったね。男女が仲良く話すとカップル認定してくる安直な中学生をベースのネック部分で真っ二つに割ってやったのさ。浅草のやきそばは味が濃かった。Mサイズを注文したら、Lサイズが出てきた。Sサイズの私の体はその量のブレンドコーヒーを受け入れるにはあまりにも小さかった。

 ふらふらとする、ふらふらとする、電車に揺られて。スカイツリーを裏切って、パンダに背中を向けて、野菜たっぷりラーメンを食べに行こう。その間の秘密の時間を楽しみにしていたんでしょう。おじさんみたいと言われて喜ぶのをやめてください。毎日涙が出るほど笑っているけど、いつまでも続くものじゃないよね。私たち遊びだから。

 明後日は給料日なので、明後日は飲み会なので、明後日は4月最終営業日なので、私はきっとお酒を飲むでしょう。日曜日には資格の試験があるから適当なところで帰るでしょう。1か月でどこまで来れたでしょう。ABCを数えて零して滲ませている。

 

ねむい!

2019年4月21日

こんばんは、だんごちゃんです。書きたいことがたくさんあるよ。

 

まずひとつめ。Web詩誌『傘と包帯』の第六集が公開されました。

 ⇒ 傘と包帯 第六集|kasatohoutai|note

 

感慨深いもので、3年目に突入したみたいです。今度もまた参加致しました。感謝。私が表現したいものは大きく2つの方向を持つという自覚があり、それらをそれぞれ一言で言ってしまえば「性」と「幼少期」で、今回は「性」に傾いた。そういう気分だったのでしょう。初期大森さんをやさしくコトコト煮て甘くしたみたいな詩になり、未熟さはあいかわらず目立つけど自分で好きになれた作品ができたので満足。私を満足させたらそれで十分なのだ。

1回分スキップしたためか、全体的に完成度が上がっている気がしている。読んでて胸がドキドキした。詩の好みがどうしてもあるからひとつひとつ感想を述べるのは控えるけど、大好きな詩がまたひとつ生まれて嬉しい。私ももっと頑張りたいなって思ったよ。私は詩を書く側の人間ではないと思う。小説の人になってしまう。他の参加者が飾り付けた言葉の挙式を私は綺麗だなあと眺めて、でもそれは私の仕事ではないと思うのです。だからって、別に悲観することはなくて、ただ方法が違うというだけだ、外見の問題。「鏡の現実を溶かして夢の世界へと変容させたい。」と主催者は書いていらっしゃるが、私は詩ではなく小説の方法でそちらにアプローチしていけたらいいと思っている。それは可能だ。必ず。

 

最近はやや躁状態にあり、加速し続けていました。が、今日は倒せなかった。予定を詰め込み過ぎて体が付いていきませんでした。苦笑。やりすぎです。なので、外出の予定を失くして夕方から自室のベッドで静かにしていました。窓を少し開けて、涼しい風と一緒に近所の子供の遊ぶ声が聞こえた。今月はゆっくりと過ぎる時間が少なかった。体は自分が求めるものを知っている。私に動くのをやめろと教えてくれたのだと思った。何も考えずに眠った。すごく気持ちがよかった。
やりすぎなのは予定を詰め込むことだけじゃない。人間とのコミュニケーションも渋滞しかけている。みんなと仲良くしたい気持ちが空回りして、八方美人的なあまり良いように動いていない気がして。いや、まだ問題が発生しているわけではないけれど自分自身の最近の振舞いを省みてそう思うのよね。新しい人間と触れあう機会が多くて好奇心で相手を知ろうとして知らず知らずのうちに私の軸がぐにゃぐにゃになりやすい時期にあるのだと思う。私は相手を受け入れたり相手によって自分を変容させるのが好きだから。良い所でもあるけど簡単に欠点にもなる。私がぶれそうになると私は小説を読む。恋人に会う。ひとりになる時間をつくる。今の私はちゃんと自分をケアできる。

 

ツイッターをなにげなく眺めていたら「若いときにクリアしておくべきことは/遊びと恋愛とセックスである/もしそれらが不十分であると年をとってから歪んで現れる/その年にしておくべきことをきちんとしておかなければあとから歪んで現れてくる」という言葉が目に飛び込んできた。本の帯に書かれているようだ。調べたら『ナースの総則200』という書籍のようだけど、そちらにはあまり関心がない。帯の言葉に私は強く共感した。大学入学してからの5年間を私はどのように私をまだ知らない人に伝えていいか分からない。異常行動が繰り返された日々であったが、その期間を黒歴史として抹消するつもりはなく、むしろ今の私を作った努力の軌跡なので別に隠すつもりはない。とはいえ、常識的に考えて「××に行って×××に××された」などと言えるわけがない。だって、ブログでも書けないもの。どうやって過去を扱えばいいのだろう。ちょっと当分課題になりそうだ。5年の間に死ぬほど遊んだし恋愛もしたしセックスもしまくった。若いうちに、社会に出る前に、全部終わらせておいて本当によかった。私みたいなひねくれた人間がこの壁を乗り越えずに入社していたら、自分自身が苦労するもん。誰彼構わず抱かれていた、そんなあり得た私の姿が容易に想像できる。本当はまだ壁の残骸が残っているけど、これは時間の問題だ。付き合い方もちょっとずつ分かってきたつもりだし。4月に入って、意識もしていない間に「私」が変わっている、それは社会に染められたとか、そんな嫌な感じじゃなくて、ちゃんとちゃんと私がなりたい私に近付く一歩で、私は嬉しい毎日、嬉しいよ。

 

嫌なこととか、泣いちゃうようなことはちょっとだけあるんだけど、それらも全部なんかうれしいなあ。だって多分全部解決できるもん。今後、どうにもならないことが現れても、どうにもならないことをどう対処するかという方法が思いつくだろうし。まあ、どうにもならなかったらそのときはそのときで、楽しんでしまえばよい。そう、多分、今は全部が楽しめている。そのことがとてもうれしい。

 

あー、本の感想とか書きたかったんだけど、そろそろ夕ご飯の準備します。明日のお弁当の準備も!今週乗り切ったら10連休だ。初心者マークを引っ提げてがんばるぞ。

2019年4月14日

恋人と夕ご飯を食べた帰り。最寄り駅の改札を出たとき、私は家に着いたらやることを考えながら歩いていた。私の体は脳からの命令を受けずとも、左の方へ足を進めていた。新しい生活がすっかり体に馴染んでいる。このとき、新しい生活が当たり前の日常になりつつあることに気づいたのだった。そこから家までだって、もう目をつぶっても帰れる。近所にたくさん住んでいる猫たちの顔の見分けだってできるし、スーパーの開店、閉店時間も完璧だ。4月も半分すぎた。私は変わっています。

 

「家を抜け出して僕の部屋においで」と、寂しそうな人を見るとすぐに言いたくなってしまう激弱クソ雑魚な私の心のぐにゃぐにゃした部分にダイレクトアタックをする大森さん「VOID」を聞いて、痛い痛いと言いながら癖になって繰り返し聞いてしまう。かさぶたを剥がすのと一緒。

 

会社の話をインターネットに書くのはあまり良くないと思うので、詳しいことは書けないなあ。どこまでセーフなんだろうか。えっとね、合宿があったの。一応、名目は新人研修合宿なんだけど内容は思い出作りみたいな楽しく長い親睦会って感じ。そこで私の強いところと弱いところがはっきり見てて、多分周りにもそれは伝わったと思う。なんか、頑張らなきゃなって背筋が伸びた。強いところは今日、恋人にも指摘してもらって自信になったのだけど、私は自立しているということだ。奴隷だったのにいつのまにか「自立」していたのだった。誰かに自分の行動決定を委ねなくなった。よかった。本当によかった。一方、弱いところはちやほやされたり求められることに強く惹かれることだ。問題が起こる。目の前の快楽に踊らされて人間関係をぶち壊さないように不用意な振る舞いや言動をしないように配慮しなくては。ああ、弱い。なんて弱いんだ私は。

 

働くことがあんなにも嫌だったのに、研修中とはいえ、なんとなく会社勤めに向いていると思う。私。働く才能がありますな。早く実際の業務に触れて揉まれたい。

 

そーんな感じ。つまらなくてすいません。また更新するね。おやすみなさい。

 

 

2019年3月31日

こんばんは、だんごちゃんです。今日で3月最後ですね。と、いうことで3月大反省会を行いたいと思います……。


まあ、とりあえず一番反省すべきは賞に出すつもりの小説が完成しなかったことですね~(爆笑)(笑えない)言い訳させて!言い訳!健康診断で精密検査が必要になってしまい、健康診断を地元で受けたから精密検査とその結果が出るまで地元に留まらなくちゃいけなくて、予定してた3月のスケジュールが全部ぐちゃぐちゃになっちゃったんですよ。本当ダヨ。精密検査の結果はなんともなかったです。でもちょっと心臓弱いらしい。発作が出たら手術すれば直るらしい。それにしても直前で書き上げようという杜撰な計画がまず駄目なんですけどね(苦笑)完成はしなかったけど、途中までは書けているしこのまま書き進めれば完成できるので、他の機会に回します。あー、一回チャンスを逃したなあと思うと心が重たい、が、神の思し召しと思うこととします。早く書きあげたいな。というか、今年の賞提出プラン立てないと次もまた同じことになるな。あとで考えなきゃ。


たくさん本を読むぞ!と思っていたけれどこれもそこそこですね。就職先で使える知識も先回りして勉強したかったんだけど、全然手をつけていないし。何かと言い訳をして後回し後回しにしてしまう。目先の欲望にとにかく弱い。これくらい大丈夫かな?いいかな?が積み重なって、あとになって苦労する。そんな感じです。うーん。


と、出来なかったことを挙げていくと凹んでしまいますが、それでも3月は充実していたし無職を満喫できたので満足度は高いです。新しい友だちもできた、今まで仲良くしてた子ともっと仲良くなった。ご飯を作るのは愉しい、お皿を洗ったり洗濯したりそういうこともちゃんとできる。今は時間と気持ちに余裕があるから家事をこなせていけるのだとは思うけど、この調子で一人暮らしをより良いものにしていきたい。一人暮らしはすごく楽しい。ちょっと時間をもてあましちゃうこともあるけど、さびしくなるときもあるけど、一人じゃないんだなあと最近は思えるので大丈夫。去年の3月はかなり参っていたから、調子がよくて嬉しい。あのとき就活をなんとか倒せたから1年自由にやってこれたのだなと思うとえらいぞと褒めてやりたい気持ちにさえなる、私。進化中~。


明日からどんな生活になるのかなあ。会社員だって。さっさと平日朝と夜のルーティーンを作っちゃって、ちゃきちゃき動き、余暇にこうやってブログ更新したり小説書いたりできるといいな。多分、できると思う。あーしかし早く初任給出ないかな。給料出たら、ちょっといろいろ買ったり行きたい場所があるのだよ。お金の使い方もどの程度自由にできるかまだ分からないしなあ。ご飯作るのが苦じゃないから、食費は節約できる気がする。オタク活動をどの程度やるかに依るのよね。れぼさんの新しい新曲楽しみだな。3月まるまる無職をやってみて、私はお散歩と物語とセックスがあればかなり満足だということが分かったのでそれ以上を求めていかなくてもいいんじゃないかという気がしないでもない。しかし、働き始めたらストレスでめちゃくちゃ買い物をしてしまうかもしれない。分からない。自分、明かに物語を欲するのが面白いな。「恋愛の話が読みたい!」「冒険の話が読みたい!」って思うもんね。面白いな~。口では「絶対仕事続く気がしない」とか言っているけど、内心仕事続けたくて仕方ない。もちろん、はじまってみて明かに適性がなかったら転職するけど、最低限しがみついていられそうだったら長く居座ってやろう。それか才能があったらさっさと仕事覚えて良い会社に転職して年収上げていく。野心ばりばりですぞ。がんばろ。(の、割には勉強しなかったね君)文筆家と会社員の二足のわらじで食っていけるとすごくいいなって思う。まだ夢のまた夢だけど、とりあえず会社員やります。あと、小説完成させます。夢を語るのはその後ですよだんごさん。はい、すいません……。


私多分すごく恵まれてて、地元の友だちはすごく良い人ばかりで私の突拍子もない行動も笑ってくれるし、ネットを介して知り合った人たちは私に生きる道を教えてくれて生きていく自信をくれたし、なんか、よかったなあと思う。これから出会う人びとは良い人もいるだろうし嫌な人もいるだろうと思うけど、なんか、もう大丈夫な気がしているのです。うんうん。こんな良い雰囲気で締めくくろうとしていますが、私、昨日まで数日間ずっとメンタルやられてうじうじしまくってたので油断なりませんよ。うへへ。(うへへではない)(人に迷惑をかけている事実)


ちなみに今日は、入社前日ということで何も予定を入れず、ひとりでのんびり過ごしていました。朝起きて小説書いて飽きたからお買いものがてらお散歩へ。こっちに引っ越してから何度かお散歩していたつもりだったけど、まだ全然知らない場所があった。今度友だちや恋人を連れて行きたいなと思う。広い公園があったから、休日のお散歩コースはここで決定だななどと思った。家帰ってからは疲れちゃったのか、体調悪くなってずっとベッドに居たんだけどね。ボルヘスの『夢の本』をゆっくり読んでいました。ギルガメッシュ叙事詩とか聖書とかオデュッセイアとか、いろんな文献の「夢」に関する部分を切り取ったアンソロジー。だるくて現実と離れていってたからちょうどよかった。今読んだところまでだと、ヒッタイト族のものがたりが好きだったな。ケシの物語。
 ケシは狩をして神々への供物を捧げていたが、あるときから恋に落ちて狩を忘れてしまう。母親に怒られて狩に出るものの、3ヵ月も獣を捕まえられず森で眠りこんでしまう。森の化け物はケシを喰ってしまおうと決めたが、その土地は死者の霊魂の棲む土地でもあり、死んだケシの父親がケシを化け物から守ったのだった。ケシは眠っている間、7つ夢を見た。ケシは再び森をさまようが、獣を摑まえることはできない。ある大きな門を開けようとするもできず、誰かが開けるのを待つことにし眠り、目覚めると夕暮れであった。「私は太陽です」と名乗る人物、太陽神がやってきて、門の向こうは黄泉の国であることを教えた。ケシは生きている人物でありながら、殺される約束で黄泉の国に下るのを許された。黄泉の国での様子は、夢で見たものと同じであった。ケシは殺されるとき命乞いをした。太陽神はケシが狩をして神々に供物を捧げていたことを思い出して言った。


「よろしい。お前は妻とその六人の姉たちと共に天に行くがよい。そこで一緒に永遠の星々を眺めなさい」
明るい夜には天の牧場に狩人が見える。彼は両手を縛られ、両足は女性の首飾りのような鎖がつながれている。狩人のそばでは七つの星が輝いている。


註釈に「ケシは天上にて鎖につながれている狩人で、プレイアデスに変わった七人の姉妹たちの追跡者オリオンのことであろう。」とされているのだけど、なんだかこういう神とか地霊とか出てきて、最終的に星の話に結びつくのすごくよくないですか……(語彙力がない)科学的でないなどと言い出すのはナンセンスなのです。彼等の視線を知り、彼等の信じるものを知るということは未来に生きる我々に許された最も偉大で幸いなことだと思うのです。彼等も私たちと同様に夢を見て、夢になんらかの意味を読み取っていたのはドキドキします。とてもたのしい。そんな夢の本でした。私も夢はよく見る方なのだけど、最近メモ取ってないなあ。


4月、かさほたがまた公開されるみたいです。私も参加させて頂いています。公開したらまた、宣伝します。それでは、私はお風呂に入って続きでも読みます。おやすみなさい。

2019年3月19日

お兄ちゃんが朝からお母さんに文句を言われ続けていてすごくしんどかった。私は他人の攻撃的な言葉や傷も吸収してしまうところがあるから、私が言われているわけでもないのに傷ついてしまった。現実逃避のために不毛なLINEを送ったり負の連鎖が続いてしまう。お兄ちゃんの部屋からは咳や鼻をかむ音が聞こえてくる。風邪をひいているのかも。なんか、すごく悲しい。お母さんはお兄ちゃんに「今日行った場所を写メで送ってね」と言った。兄が嘘ついていないか確認する為だ。気持ちが悪い。この間ね、家族みんなで久しぶりにご飯を食べたんだけど、私の卒業祝いを兼ねて、お父さんは全然空気が読めないというか、センスがない人で平気で「兄はこれからどうするんだよ、もう次の学年の就活が始まったぞ。大学卒業できるのか?はあー情けない」とぶつくさ言ってて、私全然ご飯美味しく食べられなくて、リビングから立ち去った。お兄ちゃんはいつもヘラヘラして誤魔化している。お母さんはしつこく追及する。こんなことなら私のお祝いとか、全然してくれなくてよかった。私は好きな人や友だちと遊べばそれで幸せだけど、親がお祝いしようと言ってくれたから実家に戻ってきたのに時間を無駄にしてしまった。出勤したからもう家にお母さんはいないけど、お兄ちゃんは部屋に引きこもって出てこない。お兄ちゃんに用事があってLINEしたけど返事がこない。ずっと傷ついてる。

2019年3月18日

おはようございます。だんごちゃんです。愛してください。

 

最近、全然文章が書けなくなってしまいました。個人的な日記さえ筆が進みません。どうしよう。

 

昨日はお散歩をしました。いつもなら通らない道で公園に向かいました。誰もいない曲がりくねった道、崩れた空き家、不自然に傾いた電柱、気持ち悪い青空。道の途中でぽっかりと空間に浮いた発光している穴に足を踏み入れて自分の体が消えていくような錯覚を覚えました。そこはとても寂しくて綺麗でした。体が解けていくのを感じていると、向こうから自動車がやってきました。私は轢かれないように歩道へ移りました。消えることはできないのだった。

歩いていると何もない空き地がありました。ここでなら1人になれると思い、入ろうとしたら、よく見るとベンチで男が座っていました。彼の孤独を邪魔する訳にはいかず、素直に公園を目指しました。背中しか確認していませんので、もしかしたら人形だったかもしれません。動いてなかったですし。それでも余所者の侵入を許さない何者かの意思がビリビリと空き地の入り口を封じているように思えました。

1人のはずなのに、誰かが後ろを付けてきたようです。それは不安でした。彼は音もなくゆっくりと私の後ろを歩きます。振り返るとにっこりと微笑みました。お前は俺から離れることはできないと言われているようでした。ちょうどカメラを持っていたので不安を撮影しました。あまり盛れなかった。盛れない不安は、切られる爪のようなものです。せめて妖艶な黒い髪の毛にでもなってくれたらよかったのに。さっきまで青かった空が灰色になっていました。

公園には、老婦人の集会が行われていました。また、小学生男児がリュックと上着を投げ捨ててジャングルジムを占拠し不敵な笑みを浮かべていました。私はブランコに乗ってゆらりゆらりと揺られることにしました。揺られていると脳内から(もしくは外部から)声が聞こえてきました。その一部をここに記述したいと思います。

「春からちゃんと会社勤めできるのかしら。大人になってしまった、子どもになりたい。11歳、いや、6歳くらいになりたい。何もしたくない。毎日ブランコを漕ぎたい。ブランコを行ったり来たり行ったり来たり行ったり来たりしていたら、しあわせだった。ここから見える木の枝がモンスターの指のようだ。誰か(と思いながら恋人を想像している)に教えてあげたいな。ああ、また誰かを求めている。1人になりたくてお散歩にきたのに。ブランコは自分のペースで早くしたり遅くしたり小さく揺れたり大きく揺れたりできる。人生もそうならいいのに。自分のペースを掻き乱されるのが一番嫌だな。ああ、小説書きたくないな。もう小説なんて書きたくないな。小説を書いて何になるんだ。書けば書くだけ性の話が出てきて、言葉の端から自分の汚い顔面が見えてきて嫌悪感でキーボードを叩き潰したくなる。私がやりたいのは、もっと幼少期に還っていく物語や主人公を書きたいのに。みっともないくらいセックスしてる。小説書くのは苦しいな。嫌だなあ。このままどこにでもいる誰でもないありきたりでつまらない女になるんだろうな。今の恋人と別れて職場の人と結婚して適当に周りの人に媚び売って生活をするのかな。そんなのやだなあ。永遠の愛なんて誰が言い出したんだろう。誰が全うできるのだろう。私はもはや私を信じることはできないから、そんなことはとても言えない。とても言えない。私あなたが信じられないのと涙を流す女のために、男が永遠の愛を証明するために毎日一字一句変わらないラブレターを送ったら気味が悪くて逆に女から別れを切り出しそうだな。女はいつも卑怯だから、刺激がない繰り返しの愛は愛だと認識できないのだ。これ短歌にできないかな。」

と、ここでブランコをやめてポケットからスマフォを取り出して短歌を作ろうと齷齪する。上手にまとまらず、自由律俳句とか言って逃げてしまった。短歌はつくづく向いてないなと思います。

ジャングルジムの少年はいつの間にか消えて、もっと小さな3歳くらいの男児とお父さんが公園に遊びにきていました。2人は滑り台で遊んだ後、ブランコへやってきました。男児は私に「こんにちは」と挨拶してくれました。私は幼い子も小さな動物も、1人の大人と対峙するときのように接してしまうので、出会う人すべてに愛されると思っているそいつらの前に私が立つと、そいつらは「こいつはなんで冷たい態度を取るのか?」と言いたげに目をまん丸にします。男児も例に漏れず目をまん丸にしました。そのときの目、ちょっと苦手です。私には何もできないんですもの。だから犬よりも猫が好きです。猫は愛されるつもりがありません。媚びているときは餌を要求するときと遊びたいときだけです。私は猫が好きです。

思いつくままに書いたら着地点が見えなくなってしまいました。最近の私は本当にとてもだめで、口を開けば恋人の話をしてしまう。今も、あと一歩で恋人の話題に移るところでした。なんだかなあ。

ブランコを降りると、とことこと家へ帰りました。猫が布団で丸くなり、お昼寝をしていました。私もその横でお昼寝をしました。気持ちよかったです。おしまい。