情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2017年1月30日

風邪をひきまして、鼻水を垂らしながら記事を書いております。皆さま、うがい手洗い忘れずに。マスクをしてお外に出ましょう。こんばんは、だんごちゃんです。

 

だんごちゃんって名乗るのは、少し抵抗があるのだけれど…。まあいいか。

 

今日は新たな自分に気づいてしまいまして、それを記録しに来ました。自分の内面とはかなり向き合ってきた方だと思うのですが、まだまだ見知らぬ私がいるのですね。

 

なんとですね、私、主婦が主人公の小説を読むと腹が立つ!!!!のです。

 

もう、びっくりですよ。客観的に作品を論ずることができないんです、感情が荒ぶるのです。作品を読んで、感動したとか胸糞悪かったとかそういう感想を抱くことは素晴らしいことです。でも、それで終わってはいけないのですよ。私、娯楽で読んでるわけじゃないので。講義で扱う作品なので!!日々私は感情でモノを言ってはいけないとチクチク自分自身に言い聞かせているし、実践できていると思うのです。そんな私が、感情に揺れ動かされている!!感情が生まれるのは当然です。その作品が優れている証拠でもあります。しかし、感情をただ、個人の感想で終わらせるのではなく、その感情はどこから生まれたものなのか、作品の中、あるいは自分の中から見つけるのです。その作業が、作品の深い読解に繋がる可能性があるからです。または、一旦感情を置いておいて、作品の構成やテーマを読み取るべきなんです。一方的に自分の感情を作品、作者にぶつけるのは個人的な場所でするといいのですよ。私、苛立ってます!と大声で叫ぶのは日記の中でいいんですよ!!!!

というわけで、作品を読んでグループで話して発表するというありきたりな講義が一転して、苦痛になってしまったのでした。私、この作品に対して感情的にしかなれないよ~作品との距離感が掴めないよ~うえ~ん。

で、その主婦が主人公の小説に何のうらみがあるんでしょうかね私。主婦になったことがないから感情移入できないっていうことは、ありえないと思う。つまらないとかじゃなくて、腹が立つってところに何か、主婦へのコンプレックスのような嫉妬のような軽蔑のような黒々とした理由が存在している気がして、あまり考えたくありません!!

 

実は他にも腹が立つ物語ってあるのです。へたっぴな恋愛ものです。恋愛の問題って、大抵がコミュニケーション不足か、本人の覚悟が足りないところに原因があると思うんですよ。だから、夫に不満があるとか息子が言うこと聞いてくれないとかって書いてあると私は「話し合えよ!!!!!!話し合えないなら諦めろよ!!!!!!!」となっちゃうんですよ。本当にこれ良くないよなあと思うのです。ちょくちょく出てくるこの癖。

 

嫌な思いをするならさっさと別れればいいし、別れたくないなら腹をくくれこの野郎!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

ふー、すっきりした。いろいろ文句言われることを書いた自覚があるので、本当にごめんやで…ごめん…わかってる……人類は皆、私と同じ考えじゃないってこと………ごめんね…

 

別れたいけどどうしても別れられない理由が丁寧に丁寧に書いてあるやつは好きだよ。

そこがあまり丁寧じゃないとむかついちゃうんだよ。

2017年1月19日

だんごちゃんのツイッターアカウントを消した。彼女を殺した。

 

窒息死そうになる。言葉が喉につっかえて、排出口を探している。どんな意味の無い言葉でも、不格好な文章でも、文法が間違っていても、語彙が拙くても、私の言葉には価値があると、私が言い聞かせて、私を尊重していくこと。私として存在すること。

 

隙間を埋めるように物語を読む。きらきらとして、どろどろで、私には無いものばかりだ。それでも登場人物たちの悲しみは私の悲しみに似ている。私の孤独は、彼女の孤独に近い。それが勘違いでも、自己中心的な物語の読み方でも構わない。私がそう思うということだけが、事実。だって、フィクションなんだもん。ノンフィクションも読んだけれど、文字媒体として出版され、他者の私に伝わってきた物語、私が咀嚼し飲み込んだ時点で、作者の人生とはかけ離れたものになる。私の好きなように味あわせてほしい。

 

非日常の無い日常が送れない。毎日が虚構で溢れていますように。

 

私が書きたいことって何だろう。私は何年も考えている。何が書きたくて、何が言いたくて、何が伝えたくて、私は言葉を書こうとするのだろう。排出欲にしては、綺麗なものを求めていると思わないか。排出するだけならチラシの裏でいいのに。私は私のこれをぐちゃぐちゃに丸めて捨ててほしくない。できれば、本棚の隅っこに置いておいてほしい。埃かぶってもいいから、捨てないでほしい。伝えたいことは、いつも変わる。でも、すごくわがままな欲求であることは確かだ。相手を楽しませる気もなく、社会に警鐘を鳴らしたいわけでもなく。なんでだろうね。お願いだから黙ってて。

 

言葉にならないものなんて、なんの価値もないのに。と、書いた、あなたのブログの一文が、すごくすごく好きだ。私にはまだそう言い切れるだけの力が無い。でも、あなたの主張はすごく魅力的で、私もその立場に行きたいと思った。言葉にならない気持ち、言葉にならない景色、言葉にならない瞬間。そういうものを、言葉にならないという言葉でごまかすことの無い力がほしい。言葉で言い表すことができない自分の落ち度を披露している場合ではない。言葉で表したいよ。

 

その辺の誰よりもだんごちゃんは、だんごむしだからね。じめじめしてるんだ。そろそろ太陽の光を浴びたい。

2017年1月8日

満たされない。煙草が吸えない喫煙者のようにいらついている。手持ちを代替品とするも、我慢できない。焦燥感。マッチに火がつけられない。

 

私にはやるべきことが山ほどある。やるべき期限がすぐ目の前に迫っている。そちらに意識を向ければ、今感じている苛立ちを抑えることができるに違いない。それをやらないのは、私が馬鹿だからだ。

 

小説を買った。百合の香りがする。その本を枕もとに置いて寝た。翌朝、私の隣には、枯れた花びらだけが残っていた。

 

髪の毛を切った。美容院のお姉さんは愛想が悪かった。しかしそれは彼女の癖のように思えた。笑顔が少なく、私の注文に対して「それでいいんだ」と言いたげな返事をする。特に世間話をすることもなく、サクサクと切り落とされていく私の髪の毛。毛先がひどく傷んでいることに気付いたお姉さんはヘアートリートメントを勧めた。私は貧乏なのでそれを断った。すると、またさっきと同じ返事だ。「そうですか」と。

 

底のないコップなのだと思う。おそらくとても小さい穴が空いている。小さい穴は、ガムテープで塞ぐことができる。でも、ちょっとした衝動に弱い。すぐに剝がれて中身が漏れていく。少しずつ確実に減っていく。そして飢えたコップはまた水を探す。冷たい水を下さい。できたら、愛してください。というのは、あの有名な曲の歌詞だけれど。

 

私を見てください。

 

 

2016年12月22日

目覚めたとき、舌の先端に痛みを感じた。就寝中に噛んでいたのだろうか。それとも前歯の裏側に強く押し付けていたのだろうか。初めてのことで少し驚く。そもそも昨日から舌の調子が悪い。口内炎が出来ている。なんとなく側面がヒリヒリする。疲労か、ビタミン不足かどちらかであろう。

TwitterのTLは逃げ恥の話題。私は録画組だったため、ネタバレが恐ろしくブラウザを閉じた。普段なら、すでに出勤している父がリビングに居た。父の親戚に不幸があり、今日がお葬式なのだそうだ。私にとっては遠い縁の方なので、父の喪服姿を家で見て笑うだけ。父は家を出るまでに時間があったらしく、仕事をしていたらしい。転寝していた。

逃げるは恥だが役に立つ』を観る。間違いなく、今年一番のドラマであろう。いろんな感想がすでにインターネットに書かれているので私は手短にしておく。私自身、常識から外れた普通じゃない人間である。だからこそ、逃げ恥の最終回は胸に響いた。普通や常識の枠からはみ出ても、幸せになれる希望をそこに見た。私は理屈で物を考える習性があるので、みくりちゃんや平匡さんが何度も考えて話し合い、感情を言語化して論理的に物語を展開していくところが観ていてすごく気持ちよかった。

次のクール『カルテット』はまず俳優陣が魅力的だし、脚本も『最高の離婚』を手掛けた坂元さんらしいので、必ず観たい。

 

もう12月も下旬で、そろそろ一年を振り返ったり来年に向けて目標や計画を作らねばと思う。が、頭がうまく回らないので困る。

 

家に帰るときはお帰りなさい、寝るときはおやすみなさい、ご飯を食べるときはいただきます、感謝を伝えるときはありがとう。ただそこにあるだけの、ひかり。ひかり。ひかり。君が通ってきた道は誰かが真似することのできない大切なもの。有線から流れてきた音楽が印象的だったのに、お構いなくハンバーグを貪る。フォークは汚しても、爪の中までソースが入ることはないでしょ。私の共感能力は、嬉しいことには鈍感で悲しいことには敏感で、それが良いことがどうかは分からない。共感性の低さで傷つけた。私は傷ついた。でもわからないんだからわからない。理解し合うために言葉があるって知ってるよね。なんで言葉を学ばないの。あなたが泣き叫んでもこちらには何も届いてない、何故ならあなたの言葉があまりに稚拙だから!私と君は別の人間だってことに早く気付いてほしい。私のペンケースを勝手に開かないで。お気に入りの香り付きのペン、高かったんだから使わないで。

お昼ご飯食べるの忘れて倒れた彼女の指先から落ちた画面の割れたスマートフォンに表示されてる意味不明の記述。

 

2016年12月10日

こんにちは。新しいパソコンを購入しました。だんごちゃんです。

 

「今週の日曜日、空いてる?」という連絡が旧友から来ました。

この質問の仕方ってちょっと卑怯だと思うのです。空いてるよと答えたあとでは、誘われたことを断りにくい。とはいえ、嘘ついてまで空いてないとも答えにくい。仮に予定が無かった場合でも、金欠で家を出ることもままならないかもしれない。予定があったとしても、時間帯や内容によっては日にちを別の日にずらせるかもしれない。何かを誘うならば、日付と時間と内容、場合によってはメンバーも一緒に伝えるべきだと私は思うのです。

しかし、内容やメンバーによって行くのを止めるのか?薄情なやつだと言われてしまう恐れがあります。これは困った問題です。相手次第としか言えません。自分の信条として、自分の行動は全て自分で選択したいという強い意志があるのならば、薄情だといわれることを怖れてはいけませんね。しかし、相手を信頼しているのならば、思い切って相手の行動に自らを委ねてみることもひとつの選択です。または、人付き合いとして、厄介だと思う案件にも足を運んでみることも大事です。

私は旧友にお世話になっており、旧友と良い関係を持ち続けたいと考えているため、「日曜日空いているよ。」と答え、誘われたことに快諾しました。ちょっと遠いのですが、旧友の雄姿を見に行きます。

 

忘年会シーズンです。もう2016年が終わろうとしています。あっという間でした。1年を振り返る記事はまたあとで書こうと思います。

私は2017年に向けてちょっとずつ準備を始めてみました。と、言ってもとても些細なことです。就活準備として、リクナビに登録してみました。大学卒業見込みは2019年なので、ちょっと早いのですが、遅いよりも良いはずです。年明けたら大学の就職支援の取り組みも利用していきたい。なんせ、一般の学生とは違うのですから、それなりに準備していかないと大変なことになってしまうと思うのです。心配なのです。

サイトに自分のプロフィールなどを記入していくのですが、私は何も持っていないのだなと恐怖に駆られました。例えば、アルバイト1年継続し、リーダーとして積極的に活動したとか、ゼミで精力的に研究したとか、海外留学をしたとか。何も無い。何も無いのです。でも、ここで書く「何も無い」というのは、一般的に企業にアピールできると考えられる経験のことです。私自身が何も無いなんてこれっぽっちも思いません。私には私にしか経験していない大事なものがあります。それをどうにかアピールにつなげていかないといけないなと感じます。この辺を今後、サポートしてくださる大人に相談していけたらいいな。それにしても何も無いので、書類で落とされぬように分かりやすい資格や免許を集めることも同時平行に行わなければいけませんね。

 

初めて読む詩集や、小説に胸を高鳴らせる毎日です。シンプルでリズミカルな文章は、読んでいて気持ちよい。文学は読み手がいて成立するのだがら、読みやすく分かりやすいことが何よりも大事だ、そう語った先生の言葉に私は賛同します。難解な言葉で自身の学力を顕示するよりも、分かりやすい言葉で丁寧に説明してくれる文章が私は好きです。

 

 

2016年11月18日

こんにちは。今日は私にとって久しぶりに何の予定もない休日です。正午近くまで眠っていました。

早いもので、11月も半分過ぎました。私は先日運転免許証を取得しました。私の周りの友人は、高校卒業と共に教習所に入所して大学入学前には免許を持った人が多いです。そういう友人らから、だんごはいつになったら免許取るの?と言われて過ごしていました。はい、やっと取りましたよっと。

私はなんで周りよりも遅くなったのかと言えば、理由は二つ。

1、私は将来、都内に住むと決めているから。ちなみに私の地元は車社会で、車が無ければ仕事も出来ない。

2、精神的に不安定だったので新しいことを継続的に学ぶことが難しかったため。

時間が経ち、精神的余裕と柔軟性が生まれたので、今回教習所に通うことに決めた。親が通うためのお金を工面してくれると言ってくれているのだから、有り難く恩恵に受けようと思ったのでした。とんがっててもしょうがないしね。

 

んー、、、何が書きたいんだがわかんなくなってしまった。近況報告でした。終。

 

2016年10月8日

こんにちは。低気圧の影響で頭痛に悩まされております。勉強しようと本を広げたものの、気付いたら夢の中でした。今もまだ本調子ではなく、ぼんやりとしています。酔い止めが効くと知っているのですが、手元に薬がなく、買いに行く元気もなく、だらだらとベッドで転がっていました。これ、根本的な解決方法あるのかしら?毎回薬を飲まないといけないと思うと気が重いです。今は自分のペースで生活しているので、無理のない範囲の活動に控えることができますが、いずれはカレンダーで動く会社で勤めたいと考えています。自分の体調をコントロールできるようになることも、社会復帰には必要だと思いますので今から訓練しておきます。生理痛は、ピルを飲むとだいぶ楽になる。だから、働くようになったらピル服用しようと思っています。それこそ、薬を飲み続けなくてはいけないのだが、まあ、しょうがない。

 

特別好んでいる、気に入っているというわけでもないのに、何かの縁なのか、数年に一度は必ず読む小説があります。『銀河鉄道の夜』です。初めて出会ったのは、小学生の頃。物語の内容はよくわからなかったけど、宇宙の幻想的な描写と、ジョバンニの台詞に切なさを感じた記憶があります。2回目も小学生の頃。国語の授業で宮沢賢治を取り扱ったときでした。教科書に載っている作品以外も読んで、紙芝居?のようなことをしました。画用紙にジョバンニ、カムパネルラ、ザネリ、鳥捕り、少年少女などを描いて、輪郭を切り抜いて、裏に割り箸を貼り付けたものを制作しました。パペットのようなものですね。方眼用紙には、銀河鉄道のあらすじを書き込んで、グループで発表を行いました。正直なところ、そういう記憶があるのは確かなのですが、そのときに何を思ったのか誰とやったのかどうして銀河鉄道の夜だったのか、さっぱり記憶がないので夢だったんじゃないかとちょっと思います。もしかしたら、グループ発表じゃなくて一人で自由研究のような形だったのかもしれない…。忘れました。次は中学生の時。当時のクラスの担任の先生が宮沢賢治の文庫本を所有していて、私に貸してくれました。そして、私は未だにそれを所有しています!借りたときからかなり日焼けして表紙カバーもない状態ですので、おそらく借りっ放しでも相手は困ってはいないと思うのですが、ちょっと悪いことしたなと思います。笑。同窓会なんかでお会いしたときに実は先生の本を借りたままになっていたのですと打ち明けようと考えていたのですが、先生は同窓会には姿を現しませんでした。それどころか、教えて頂いたメールアドレスはもう使われていないし、成人式のときに祝いのメッセージさえも贈ってはくれませんでした。私たちの代は先生に嫌われていたのでしょうか?そして、月日は流れて、現在。大学の課題で銀河鉄道の夜がテーマに挙げられました。久しぶりに読むと、また違った印象を持ちますね。今までの私は、素敵ではあるのだけどよくわからないという感想を抱いていました。銀河鉄道の夜に込められた賢治の想いを少し見えるようになったのでしょうね、まだわからないという気持ちはあるものの、わからないものを解釈していく手掛かりに気づくことができました。この後、丁寧に読み解いていく作業をします。

 

賢治の作品で最も好きなのは、『よだかの星』です。理由は、私の敬愛するSoundHorizonが同タイトルで曲を書いたから、ではなくて、これも小学生の頃に読んで衝撃を受けたからですね。それはもう衝撃を受けました。まず、最初の文章が「よだかは、実にみにくい鳥です。」それだけで、当時の私はなんだこれは?と思いました。絵本のような、挿絵が入った本で読んだのですが、全体の色彩が暗い。物語の内容も陰鬱としている。私は妙に息を沈めて、ページを捲りました。他の鳥たちに悪く言われ、虫を食べることに罪の意識を持ち、「灼け死んでもかまいません」と星々に乞うよだか。胸をざわつかせながら、読み進めていくと、よだかが燃えていくイラストと、「もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。」の言葉に、私は奇妙な感動を覚えました。読了後の、まだ物語の世界から覚醒することができない幸福で孤独な、充たされた余韻を忘れることができません。私は確かに教室の後で、お昼休みに学級文庫に並んだ本の一冊を立ち読みしていただけでした。しかし、その瞬間、私は学校にはいませんでした。よだかの星の世界を俯瞰している姿形のない存在として在ったのでした。

私が本を読む理由のひとつとして、この瞬間に出会いたいからなのだろうと思います。

 

幸せなことと、孤独状態であることはつくづく切り離せないものだと考えています。それは、やはりシモーヌの影響が強いのだと思うのですが、上記のような経験からも、すんなりとその考えを受け入れられるのだろうな。独りで本を読むときに、充たされた状態を得られるのに、他人と居ると孤独感で首が締まるように感じるのは、大変皮肉なものですね。どうにかならんものか。多分、人間と付き合う中でも同じように充たされた感覚を味わえると思うのです。工夫次第、考え方次第。私はまだ未熟で、それを習得しきれてないというところでしょうか。何事も方法は分かるのだけど、実践は難しい。

 

なぜか、キーボードを打つ手が止まらない。もうしばらく私の戯言にお付き合いくださいませ。

 

今朝からもやもやとしていた。どうしても納得できないことがあった。悶々と考えた結果、それは私の欲望が満たされていないことに起因することが判明。そうして、私はそれを満たすためにブログを更新する。ポリアモリーの用語?でコンバージョンというものがある。嫉妬の対義語とされており、好きな人が、自分以外の他人を愛しているときに感ずるあたたかな気持ちを指す。嫉妬という感情を抱く人間は、好きな人が自分以外の他人を愛するときに嫉妬、負の感情を抱くと思う。それは悲哀や憤慨であろう。その反対です。想像できますか?私は、この感覚を理解できる、さらに感じたこともあります。しかし、いつも嫉妬心を感じないわけでは決してありません。どうしても、気に入らないことはあります。どこで、そこの差が分かつのだろうと考えた時に、「そのときの私はどんな精神状態にあるか」という部分がかなり大きいのではないかと思いました。現状、満たされている/愛されている/自分を大切にできる心持ちのときは、相手の幸福を素直に喜べます。好きな人が、私以外の好きな人を愛でる、きっとそれは好きな人にとって幸福なことです。それを見て、私も幸せになれる。そんな感じ。現状、満たされていない/愛を感じられてない/自分を大切にできない心持ちのときは、自分の欠けた部分を相手に満たしてもらおうと必死です。そんな時に、好きな人が自分以外の人を愛でていたら、もうやりきれない気持ちになります。私はこんなにあなたを求めているのに、どうして応えてくれないの?と。これはどちらが良い悪いの話ではありません。人間ですので、どうしたって完璧にはなれないし、時にはへこむこともある、という話です。ただ、思うのは、コンバージョンを感じ取ることはかなり難しいことであるということ。常に満たされた状態で生きることの難しさを考えれば簡単です。私は、どうしたらできるだけ多くの時間を満たされた気持ちで生活できるか、それを大切にしていきたいです。そんなわけで、もやもやとしたり、へこんだりしたときにはそれの原因をちゃんと明らかにしていくこと、明らかにしたうえで解決しようと試みること。それを意識しています。今回は、自己顕示欲が満たされていなかったらしいです。ブログで自分の言葉を書くと、それにリアクションがありなしに限らず、読む人が居るというだけで満たされます。読んで下さっている方、いつも有難う御座います。

 

最近知り合った人間に、「いい加減に生きてるね、話を聞けば聞くほど変なこといっぱいしてそう」と言われました。その理由は、私が中学生の頃に吹奏楽部が無かったから代わりに剣道部に入った。友達が剣道部に入ったから、そして剣道はやらずに遊んでいた。という話をしたからです。まあ、確かにいい加減に見えるでしょう。吹部が無くて剣道部に入部するのも意味不明でしょう。そう言われたことに対して別に妥当な意見だなとしか思いません。むしろ、私っていい加減に生きているかも、変なこといっぱいしてるかもと思ってしまいました。私としては私の思う道を歩んでいるので、変なことをしているつもりは全くないです。ただ、それが他人からすると変な奴だと思われてしまうのだなと改めて思いました。残念ながら私は堅実に生きていける人間ではないのです。文学部に所属しているため、物語の考察や裏の時代背景、人間同士のエピソードを聞く場面が多いです。私はかなりそれが楽しいです。しかし、その知り合いは苦痛のようでした。彼に言わせれば、「これテストに出ないでしょ?」という話。なるほど、確かにテストには絶対出ない小話が多いのは事実。しかし学問の特色上、方法論や結果ばかりを追い求めてはどうなのだろうかと思います。そういうところも、私と彼は考え方、世界の見え方が違うのだなと感じました。そして、文学部は遊べると言われる所以でもあるなあと思いました。テストに出ることだけなら、ぶっちゃけ講義などでなくても大丈夫です。本に書いてあることを自分の言葉に変えて論述すればそれだけです。まあ、このご時世じゃな、しょうがないよな。これもやはり良い悪いの話ではなく、考え方が違うなあというだけ。

 

なんでこんな書きたいことがあるんだろう。まだ書こうと思えば書けるけどやめておく。キーボードを鳴らすのが楽しいだけかもしれない。ブログに書かないでレポートを進めようね私。