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情死

Would you cry if I died Would you remember my face?

2017年1月8日

満たされない。煙草が吸えない喫煙者のようにいらついている。手持ちを代替品とするも、我慢できない。焦燥感。マッチに火がつけられない。

 

私にはやるべきことが山ほどある。やるべき期限がすぐ目の前に迫っている。そちらに意識を向ければ、今感じている苛立ちを抑えることができるに違いない。それをやらないのは、私が馬鹿だからだ。

 

小説を買った。百合の香りがする。その本を枕もとに置いて寝た。翌朝、私の隣には、枯れた花びらだけが残っていた。

 

髪の毛を切った。美容院のお姉さんは愛想が悪かった。しかしそれは彼女の癖のように思えた。笑顔が少なく、私の注文に対して「それでいいんだ」と言いたげな返事をする。特に世間話をすることもなく、サクサクと切り落とされていく私の髪の毛。毛先がひどく傷んでいることに気付いたお姉さんはヘアートリートメントを勧めた。私は貧乏なのでそれを断った。すると、またさっきと同じ返事だ。「そうですか」と。

 

底のないコップなのだと思う。おそらくとても小さい穴が空いている。小さい穴は、ガムテープで塞ぐことができる。でも、ちょっとした衝動に弱い。すぐに剝がれて中身が漏れていく。少しずつ確実に減っていく。そして飢えたコップはまた水を探す。冷たい水を下さい。できたら、愛してください。というのは、あの有名な曲の歌詞だけれど。

 

私を見てください。

 

 

2016年12月22日

目覚めたとき、舌の先端に痛みを感じた。就寝中に噛んでいたのだろうか。それとも前歯の裏側に強く押し付けていたのだろうか。初めてのことで少し驚く。そもそも昨日から舌の調子が悪い。口内炎が出来ている。なんとなく側面がヒリヒリする。疲労か、ビタミン不足かどちらかであろう。

TwitterのTLは逃げ恥の話題。私は録画組だったため、ネタバレが恐ろしくブラウザを閉じた。普段なら、すでに出勤している父がリビングに居た。父の親戚に不幸があり、今日がお葬式なのだそうだ。私にとっては遠い縁の方なので、父の喪服姿を家で見て笑うだけ。父は家を出るまでに時間があったらしく、仕事をしていたらしい。転寝していた。

逃げるは恥だが役に立つ』を観る。間違いなく、今年一番のドラマであろう。いろんな感想がすでにインターネットに書かれているので私は手短にしておく。私自身、常識から外れた普通じゃない人間である。だからこそ、逃げ恥の最終回は胸に響いた。普通や常識の枠からはみ出ても、幸せになれる希望をそこに見た。私は理屈で物を考える習性があるので、みくりちゃんや平匡さんが何度も考えて話し合い、感情を言語化して論理的に物語を展開していくところが観ていてすごく気持ちよかった。

次のクール『カルテット』はまず俳優陣が魅力的だし、脚本も『最高の離婚』を手掛けた坂元さんらしいので、必ず観たい。

 

もう12月も下旬で、そろそろ一年を振り返ったり来年に向けて目標や計画を作らねばと思う。が、頭がうまく回らないので困る。

 

家に帰るときはお帰りなさい、寝るときはおやすみなさい、ご飯を食べるときはいただきます、感謝を伝えるときはありがとう。ただそこにあるだけの、ひかり。ひかり。ひかり。君が通ってきた道は誰かが真似することのできない大切なもの。有線から流れてきた音楽が印象的だったのに、お構いなくハンバーグを貪る。フォークは汚しても、爪の中までソースが入ることはないでしょ。私の共感能力は、嬉しいことには鈍感で悲しいことには敏感で、それが良いことがどうかは分からない。共感性の低さで傷つけた。私は傷ついた。でもわからないんだからわからない。理解し合うために言葉があるって知ってるよね。なんで言葉を学ばないの。あなたが泣き叫んでもこちらには何も届いてない、何故ならあなたの言葉があまりに稚拙だから!私と君は別の人間だってことに早く気付いてほしい。私のペンケースを勝手に開かないで。お気に入りの香り付きのペン、高かったんだから使わないで。

お昼ご飯食べるの忘れて倒れた彼女の指先から落ちた画面の割れたスマートフォンに表示されてる意味不明の記述。

 

2016年12月10日

こんにちは。新しいパソコンを購入しました。だんごちゃんです。

 

「今週の日曜日、空いてる?」という連絡が旧友から来ました。

この質問の仕方ってちょっと卑怯だと思うのです。空いてるよと答えたあとでは、誘われたことを断りにくい。とはいえ、嘘ついてまで空いてないとも答えにくい。仮に予定が無かった場合でも、金欠で家を出ることもままならないかもしれない。予定があったとしても、時間帯や内容によっては日にちを別の日にずらせるかもしれない。何かを誘うならば、日付と時間と内容、場合によってはメンバーも一緒に伝えるべきだと私は思うのです。

しかし、内容やメンバーによって行くのを止めるのか?薄情なやつだと言われてしまう恐れがあります。これは困った問題です。相手次第としか言えません。自分の信条として、自分の行動は全て自分で選択したいという強い意志があるのならば、薄情だといわれることを怖れてはいけませんね。しかし、相手を信頼しているのならば、思い切って相手の行動に自らを委ねてみることもひとつの選択です。または、人付き合いとして、厄介だと思う案件にも足を運んでみることも大事です。

私は旧友にお世話になっており、旧友と良い関係を持ち続けたいと考えているため、「日曜日空いているよ。」と答え、誘われたことに快諾しました。ちょっと遠いのですが、旧友の雄姿を見に行きます。

 

忘年会シーズンです。もう2016年が終わろうとしています。あっという間でした。1年を振り返る記事はまたあとで書こうと思います。

私は2017年に向けてちょっとずつ準備を始めてみました。と、言ってもとても些細なことです。就活準備として、リクナビに登録してみました。大学卒業見込みは2019年なので、ちょっと早いのですが、遅いよりも良いはずです。年明けたら大学の就職支援の取り組みも利用していきたい。なんせ、一般の学生とは違うのですから、それなりに準備していかないと大変なことになってしまうと思うのです。心配なのです。

サイトに自分のプロフィールなどを記入していくのですが、私は何も持っていないのだなと恐怖に駆られました。例えば、アルバイト1年継続し、リーダーとして積極的に活動したとか、ゼミで精力的に研究したとか、海外留学をしたとか。何も無い。何も無いのです。でも、ここで書く「何も無い」というのは、一般的に企業にアピールできると考えられる経験のことです。私自身が何も無いなんてこれっぽっちも思いません。私には私にしか経験していない大事なものがあります。それをどうにかアピールにつなげていかないといけないなと感じます。この辺を今後、サポートしてくださる大人に相談していけたらいいな。それにしても何も無いので、書類で落とされぬように分かりやすい資格や免許を集めることも同時平行に行わなければいけませんね。

 

初めて読む詩集や、小説に胸を高鳴らせる毎日です。シンプルでリズミカルな文章は、読んでいて気持ちよい。文学は読み手がいて成立するのだがら、読みやすく分かりやすいことが何よりも大事だ、そう語った先生の言葉に私は賛同します。難解な言葉で自身の学力を顕示するよりも、分かりやすい言葉で丁寧に説明してくれる文章が私は好きです。

 

 

2016年11月18日

こんにちは。今日は私にとって久しぶりに何の予定もない休日です。正午近くまで眠っていました。

早いもので、11月も半分過ぎました。私は先日運転免許証を取得しました。私の周りの友人は、高校卒業と共に教習所に入所して大学入学前には免許を持った人が多いです。そういう友人らから、だんごはいつになったら免許取るの?と言われて過ごしていました。はい、やっと取りましたよっと。

私はなんで周りよりも遅くなったのかと言えば、理由は二つ。

1、私は将来、都内に住むと決めているから。ちなみに私の地元は車社会で、車が無ければ仕事も出来ない。

2、精神的に不安定だったので新しいことを継続的に学ぶことが難しかったため。

時間が経ち、精神的余裕と柔軟性が生まれたので、今回教習所に通うことに決めた。親が通うためのお金を工面してくれると言ってくれているのだから、有り難く恩恵に受けようと思ったのでした。とんがっててもしょうがないしね。

 

んー、、、何が書きたいんだがわかんなくなってしまった。近況報告でした。終。

 

2016年10月8日

こんにちは。低気圧の影響で頭痛に悩まされております。勉強しようと本を広げたものの、気付いたら夢の中でした。今もまだ本調子ではなく、ぼんやりとしています。酔い止めが効くと知っているのですが、手元に薬がなく、買いに行く元気もなく、だらだらとベッドで転がっていました。これ、根本的な解決方法あるのかしら?毎回薬を飲まないといけないと思うと気が重いです。今は自分のペースで生活しているので、無理のない範囲の活動に控えることができますが、いずれはカレンダーで動く会社で勤めたいと考えています。自分の体調をコントロールできるようになることも、社会復帰には必要だと思いますので今から訓練しておきます。生理痛は、ピルを飲むとだいぶ楽になる。だから、働くようになったらピル服用しようと思っています。それこそ、薬を飲み続けなくてはいけないのだが、まあ、しょうがない。

 

特別好んでいる、気に入っているというわけでもないのに、何かの縁なのか、数年に一度は必ず読む小説があります。『銀河鉄道の夜』です。初めて出会ったのは、小学生の頃。物語の内容はよくわからなかったけど、宇宙の幻想的な描写と、ジョバンニの台詞に切なさを感じた記憶があります。2回目も小学生の頃。国語の授業で宮沢賢治を取り扱ったときでした。教科書に載っている作品以外も読んで、紙芝居?のようなことをしました。画用紙にジョバンニ、カムパネルラ、ザネリ、鳥捕り、少年少女などを描いて、輪郭を切り抜いて、裏に割り箸を貼り付けたものを制作しました。パペットのようなものですね。方眼用紙には、銀河鉄道のあらすじを書き込んで、グループで発表を行いました。正直なところ、そういう記憶があるのは確かなのですが、そのときに何を思ったのか誰とやったのかどうして銀河鉄道の夜だったのか、さっぱり記憶がないので夢だったんじゃないかとちょっと思います。もしかしたら、グループ発表じゃなくて一人で自由研究のような形だったのかもしれない…。忘れました。次は中学生の時。当時のクラスの担任の先生が宮沢賢治の文庫本を所有していて、私に貸してくれました。そして、私は未だにそれを所有しています!借りたときからかなり日焼けして表紙カバーもない状態ですので、おそらく借りっ放しでも相手は困ってはいないと思うのですが、ちょっと悪いことしたなと思います。笑。同窓会なんかでお会いしたときに実は先生の本を借りたままになっていたのですと打ち明けようと考えていたのですが、先生は同窓会には姿を現しませんでした。それどころか、教えて頂いたメールアドレスはもう使われていないし、成人式のときに祝いのメッセージさえも贈ってはくれませんでした。私たちの代は先生に嫌われていたのでしょうか?そして、月日は流れて、現在。大学の課題で銀河鉄道の夜がテーマに挙げられました。久しぶりに読むと、また違った印象を持ちますね。今までの私は、素敵ではあるのだけどよくわからないという感想を抱いていました。銀河鉄道の夜に込められた賢治の想いを少し見えるようになったのでしょうね、まだわからないという気持ちはあるものの、わからないものを解釈していく手掛かりに気づくことができました。この後、丁寧に読み解いていく作業をします。

 

賢治の作品で最も好きなのは、『よだかの星』です。理由は、私の敬愛するSoundHorizonが同タイトルで曲を書いたから、ではなくて、これも小学生の頃に読んで衝撃を受けたからですね。それはもう衝撃を受けました。まず、最初の文章が「よだかは、実にみにくい鳥です。」それだけで、当時の私はなんだこれは?と思いました。絵本のような、挿絵が入った本で読んだのですが、全体の色彩が暗い。物語の内容も陰鬱としている。私は妙に息を沈めて、ページを捲りました。他の鳥たちに悪く言われ、虫を食べることに罪の意識を持ち、「灼け死んでもかまいません」と星々に乞うよだか。胸をざわつかせながら、読み進めていくと、よだかが燃えていくイラストと、「もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居りました。」の言葉に、私は奇妙な感動を覚えました。読了後の、まだ物語の世界から覚醒することができない幸福で孤独な、充たされた余韻を忘れることができません。私は確かに教室の後で、お昼休みに学級文庫に並んだ本の一冊を立ち読みしていただけでした。しかし、その瞬間、私は学校にはいませんでした。よだかの星の世界を俯瞰している姿形のない存在として在ったのでした。

私が本を読む理由のひとつとして、この瞬間に出会いたいからなのだろうと思います。

 

幸せなことと、孤独状態であることはつくづく切り離せないものだと考えています。それは、やはりシモーヌの影響が強いのだと思うのですが、上記のような経験からも、すんなりとその考えを受け入れられるのだろうな。独りで本を読むときに、充たされた状態を得られるのに、他人と居ると孤独感で首が締まるように感じるのは、大変皮肉なものですね。どうにかならんものか。多分、人間と付き合う中でも同じように充たされた感覚を味わえると思うのです。工夫次第、考え方次第。私はまだ未熟で、それを習得しきれてないというところでしょうか。何事も方法は分かるのだけど、実践は難しい。

 

なぜか、キーボードを打つ手が止まらない。もうしばらく私の戯言にお付き合いくださいませ。

 

今朝からもやもやとしていた。どうしても納得できないことがあった。悶々と考えた結果、それは私の欲望が満たされていないことに起因することが判明。そうして、私はそれを満たすためにブログを更新する。ポリアモリーの用語?でコンバージョンというものがある。嫉妬の対義語とされており、好きな人が、自分以外の他人を愛しているときに感ずるあたたかな気持ちを指す。嫉妬という感情を抱く人間は、好きな人が自分以外の他人を愛するときに嫉妬、負の感情を抱くと思う。それは悲哀や憤慨であろう。その反対です。想像できますか?私は、この感覚を理解できる、さらに感じたこともあります。しかし、いつも嫉妬心を感じないわけでは決してありません。どうしても、気に入らないことはあります。どこで、そこの差が分かつのだろうと考えた時に、「そのときの私はどんな精神状態にあるか」という部分がかなり大きいのではないかと思いました。現状、満たされている/愛されている/自分を大切にできる心持ちのときは、相手の幸福を素直に喜べます。好きな人が、私以外の好きな人を愛でる、きっとそれは好きな人にとって幸福なことです。それを見て、私も幸せになれる。そんな感じ。現状、満たされていない/愛を感じられてない/自分を大切にできない心持ちのときは、自分の欠けた部分を相手に満たしてもらおうと必死です。そんな時に、好きな人が自分以外の人を愛でていたら、もうやりきれない気持ちになります。私はこんなにあなたを求めているのに、どうして応えてくれないの?と。これはどちらが良い悪いの話ではありません。人間ですので、どうしたって完璧にはなれないし、時にはへこむこともある、という話です。ただ、思うのは、コンバージョンを感じ取ることはかなり難しいことであるということ。常に満たされた状態で生きることの難しさを考えれば簡単です。私は、どうしたらできるだけ多くの時間を満たされた気持ちで生活できるか、それを大切にしていきたいです。そんなわけで、もやもやとしたり、へこんだりしたときにはそれの原因をちゃんと明らかにしていくこと、明らかにしたうえで解決しようと試みること。それを意識しています。今回は、自己顕示欲が満たされていなかったらしいです。ブログで自分の言葉を書くと、それにリアクションがありなしに限らず、読む人が居るというだけで満たされます。読んで下さっている方、いつも有難う御座います。

 

最近知り合った人間に、「いい加減に生きてるね、話を聞けば聞くほど変なこといっぱいしてそう」と言われました。その理由は、私が中学生の頃に吹奏楽部が無かったから代わりに剣道部に入った。友達が剣道部に入ったから、そして剣道はやらずに遊んでいた。という話をしたからです。まあ、確かにいい加減に見えるでしょう。吹部が無くて剣道部に入部するのも意味不明でしょう。そう言われたことに対して別に妥当な意見だなとしか思いません。むしろ、私っていい加減に生きているかも、変なこといっぱいしてるかもと思ってしまいました。私としては私の思う道を歩んでいるので、変なことをしているつもりは全くないです。ただ、それが他人からすると変な奴だと思われてしまうのだなと改めて思いました。残念ながら私は堅実に生きていける人間ではないのです。文学部に所属しているため、物語の考察や裏の時代背景、人間同士のエピソードを聞く場面が多いです。私はかなりそれが楽しいです。しかし、その知り合いは苦痛のようでした。彼に言わせれば、「これテストに出ないでしょ?」という話。なるほど、確かにテストには絶対出ない小話が多いのは事実。しかし学問の特色上、方法論や結果ばかりを追い求めてはどうなのだろうかと思います。そういうところも、私と彼は考え方、世界の見え方が違うのだなと感じました。そして、文学部は遊べると言われる所以でもあるなあと思いました。テストに出ることだけなら、ぶっちゃけ講義などでなくても大丈夫です。本に書いてあることを自分の言葉に変えて論述すればそれだけです。まあ、このご時世じゃな、しょうがないよな。これもやはり良い悪いの話ではなく、考え方が違うなあというだけ。

 

なんでこんな書きたいことがあるんだろう。まだ書こうと思えば書けるけどやめておく。キーボードを鳴らすのが楽しいだけかもしれない。ブログに書かないでレポートを進めようね私。

 

2016年9月18日その2

起こってもないことを想像して悲しくなる無意味な遊び。それは来たる悲しみに耐える訓練。しかし、現実は大概予想を上回る。

 

私は人に共感しやすい性質って理解しているのに、わざわざ辛くなるような経験の記事を読んで辛くなってる私。何がしたいんだろう 不幸ごっこ?

 

だんごちゃん自己評価低いくせに、いざとなったらすぐに結婚相手見つけてちゃっちゃと男の収入に貪って生きてやるからな、俺に婚約相手ができないわけないからな、みたいなテンションで生活してるの矛盾してると思う。なんでこんな風に思うかと言うと、だんごちゃんは背格好が小さくて顔が地味な黒髪だからか地味目な理系くんに需要があるという自覚があるからですね。そこに需要があるなら彼らの性格に合わせて私の振る舞いを変えればいいだけだ。それで「生きてる」と言えるかどうかは別問題だけどね。(´・з・`)

 

結婚しないよ 私は私として生きられる人と生きたいもの

 

だんごちゃんは、好きな人には全部伝えたいし全部理解してもらいたいのだけど、それってもしかして相当我儘なのかな。みんながみんな、そういう考え方するわけじゃないのよね。

 

行った。客層は偏りなく、おばさんとおじさん男子女子って感じ。正直微妙。ツイッターのメンヘラがツイートしてるような内容が語られてあるだけ。現実としてそういう問題があるということを知らない人にとっては衝撃かもしれない。大抵の『買われた』女の子は、家庭環境が悪く、家を出るしか生きる道が無かった、未成年だから働ける場所や住める場所が無く、身体を売るわけだ。そこで身体を売ることをしっかりビジネスとして続けられる子と、騙され続けてボロボロになる子に分かれてくる。問題が何処にあるかが、この展示では全く分からない。酷い環境にいる女の子が居るよ!と言うだけならアフリカで飢餓する子どもが居るよ!と言われてるのと全く一緒で意味が無い。家庭環境を改善できるのか、居場所の無い女の子を受け入れる先をどう作るか、働けない子の支援は?ん、違うか。売春の問題や解決の道は来場者に考えさせることが目的だったり?でもなあ、もっと良い方法があったんじゃないかと思う。不幸自慢乙と言われてもしょうがない内容。この企画を見て「可哀想に」と感想を抱いたとしても、実際にコンビニバイトで不器用な女子が来たら店長はクビにさせるしかないわけで。そういう意味ではそこのお前も売春に手を貸しているんだぞということ。だから、だんごちゃんはこの問題ばかりはどういう態度で居たらいいのか分からないのだよ。この手の解決方法が、良い男と結婚、だったりするから余計タチが悪い。女の子を傷つけるのも助けるのも男ってつらすぎる。

 

私を認めるのも、私を慰めるのも、私を味方するのも、私を励ますのも、私を癒すのも、私を喜ばせるのも、私を幸せにするのも、私を許すのも、私を受け止めるのも、私を抱擁するのも、 「私は私よ!心があるもの!」

 

少し前までは、私なんか…まんこにしか価値が無いし…って思ってたけど、最近元気になったからか、私が良い女じゃないわけないだろう、私より見た目が綺麗な子はたくさんいるが、私ほど良い女はそうそういないだろう( ・´ー・`)みたいなテンションになってきた。それはそれで駄目な気がする。笑

 

だんごちゃんの昔のHNやIDをググって過去の自分を供養してる。いろいろ殺しちゃったな。ごめんなさい。貴方たちが居るから今の私が居ます。

 

今日など今日から上映が始まったジャングル◯ックを観たのだが、動物たちでBL妄想を始めてしまったのだ。誰か私の歪んだ眼鏡を直してくれないか?ジャングル◯ックについてはちゃめちゃ語りたいことがあるのだが、まだネタバレは避けるべきだと思うので、指がムズムズする。

 

家を売る女、工藤阿須加くんの酔っ払いシーンを観る為に観ていると言っても過言じゃない。あと個人的なツボは、千葉雄大のイモトを振り払う演技や営業スマイルから冷めた表情に変わる瞬間の自然さから見える彼の私生活でもこういうことあるんだろうな感です。※あくまでも私個人の感想であり、事実とは全く無関係です。工藤阿須加くんの犬っぷりが最高です。みんな工藤阿須加くんをもっと観て。あと課長のへたれた感じの演技が最高です。二次創作したい以外の感情が無い。(辞めなさい)

 

10代の頃の痛々しい感情の延長で今日を生きているが、もう私は21歳になってしまったということを忘れてはいけない。いつまでも10代の身の振りをしていたらただただみっともない。みっともないから、私はにっこり笑顔を浮かべる。もう誰にも中指を向けないしノートにポエムも書かない。私の痛々しさは芸術性なんて持たなかったし、普遍性も無いようだし、私は無理やりにでも笑わなければいけないのだ。笑え、笑えよ。お前が睨んで喜ぶ世界は無かったのだ。創作する者で在りたい、日常の何でもない風景を必死に記憶して、記述して、自分を慰める為だけに、認められようなんて下心の無い、純粋な、何か。と、まあ、大森さんの初期の曲を聴いて思うのです。どのロックバンドも初期の曲がカッコいいのは、10代の痛々しさがそのまま記録されているからです。下手すれば黒歴史に違いないのだけど、それが堪らなく良いのです。大森さんに対して、または林檎さんやれぼさんに対して、初期が良かったというのは間違えで、初期は痛かった拙かったと言うべきだ。その拙さは作ろうとしても作れない魅力である。いまの彼らは作られた最高の音楽を作っている。そりゃ初期とは変わってくる。クオリティとしては初期よりずっと良いのだ。(つい自分の好きなアーティストで話を進めちゃう人)また、死が直前に迫った作者の作品はまた違う魅力がある。作ろうとしても作れない魅力。10代の無敵と弱さ、死を目前とした絶望と諦念。

 

苦しかと 声耐え耐えに 逝く女

ラブホ街を 睨んで帰る

黎明に 涙が落つる 歌舞伎町

始発電車で 帰る気怠さ

LINE見ている 貴方を噛んだ

耳元に 嘘の約束 響きたり

殺すつもりで 頭を撫でる

口含み 飲み干したるは 白濁の

今日は帰らん 今日は帰らん

 

怪訝 騒音 苦痛 →思考停止させよ

死を想わない日は無い。つまり、詩を思わない日も無い、ということ。

歌うように軽やかに、詠うように真摯に。

 

 

 

2016年9月18日

 気に入っているブログが、5月の記事を最後に未だ更新されずにいる。彼の文章や見える世界が好きなのだけどなあ。書くことを生業としようとしている人なので、何等かの目的の為に原稿に取り組んでいるのだと思う。私も最近ブログを更新していなかったと思い至り、はてなブログを開いた。

 早いもので、このブログを始めてから1年が経過した。ここ半年の記事は極めて抽象的で感情が生まれた瞬間の、荒々しい言葉で表した文章ばかりであるが、それでも、整ってない言葉の隙間から当時の自分の様子を見られて、私にとっては非常に愉しい。今後ものんびりひっそりと続けられたら良いと思う。

 

 夏の思い出。初めてスキューバダイビングをした。小さい頃に水泳教室に通っていたので、水に対する恐怖心は全くない。海が好きだと思って生きてきた。しかし、マスクを装着し、器材を身に纏い、海へ入る。そして、レギュレーターで呼吸を始めると 急に恐怖心が私を襲ったのだった。口呼吸に慣れていないこと、水中にもぐる=息を止めるという意識が強く私に根差していたこと、もし海の中で呼吸が苦しくなっても空気がどこにもないこと(背負っているタンクがあるのにね)、そういった要因から、私は少々パニックに陥った。もし…なったら?もし…なったら?不安で呼吸が早くなり、潜ることができなかった。私の基本的なスタンスとして、「失敗したとしても死なないし、周りの人がいるし、なんとかなるだろう」というものがある。海の中ではどうだろうか。海の中では失敗や突然の出来事が、すぐに死に結び付く。ガイドさんは確かにいるが、1人しかいない。こわいこわいと何度も言う私に、ガイドさんは手を握って、私の呼吸が落ち着くように宥めて下さった。お茶を啜るように息を吸って、ゆ~っくり吐くんだよ。その言葉通りに息を吸って、吐いて、吸って、吐いて…そして、ガイドさんと一緒に潜水した。海は、とても綺麗だった!だが、まだその時の私は呼吸を乱さないように、水中でパニックを起こさないように、苦しいと感じても落ち着かせるように、自分自身に集中している状態であった。海の綺麗さ、ダイビングの愉しさを理解するのは、1,2本では難しいと思う。体験ダイビングというコースもあり、気軽にダイビング経験は誰でも出来るのだが、人によっては、それではただ怖かったという感想で終わってしまいそうだな。少なくとも私だったら、毛嫌いして終わっただろうなと思う。私は、ライセンス取得の為に、最初から3日間ダイビングすることを予約していたため、ある意味では強制的に2日目が始まる。1日目、海に対する恐怖心を覚えて終えたため、2日目が始まるまでかなり戸惑っていた。リタイアしちゃおうかな、お金はもったいないけど、こんな怖い思いして潜る意味ってなんだ?と。しかし、心配は杞憂に終わり、全てのプログラムを終えて、ライセンス取得したころにはダイビングの虜となっていた!恐怖心は危険を回避するために必要なものである。ダイビングのリスクを念頭に置いて、冷静に、且つ楽しく潜れたということは、自分にとってかなり良い経験となった。否応にでも精神を安定させなくてはいけない、これは日常生活でも活かせることだと思う。特に私は、心配性だったり被害妄想が膨らんで、1人で不安感でいっぱいになることが日常茶飯事であった。そういったときにも、冷静にゆっくりと落ち着いて呼吸をすること、自分の状況を正しく理解することで不安や恐怖から、少しは解放されるのかなと思う。また、海の中ではコミュニケーションが難しい。なんせ言葉が話せないのだから。日常生活では、SNSなどもあり、常に世界中の他人と意思疎通をしている状態である。それが、海では、隣に居る人とすら簡単なことしか伝えられない。孤独である。その孤独は恐怖でもあったが、心地よさも感じた。ダイビングの魅力は様々あるが、この孤独感も魅力の一つなのではないかと思った。目の前に広がる魚やサンゴ礁を、すぐさま写真をとってSNSに挙げて人々に共有するのではなく、自分の胸のうちで、その景色の美しさを堪能し、感動に包まれる。他にも魅力を感じたが、でもとにかく海の中は怖い(そもそも人間は海の中で生活できないものね)ということを忘れずに、今度またダイビングに行きたいなと思った。